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右→は伝教大師様(最澄)肖像、平安時代の僧侶(印度哲学者)で近江の人、三津首氏の出身。延暦23年(804)年遣唐使の一員として入唐、天台山に登り道穟に天台教学を学ぶ。大同元年(805年)帰国後に日本天台宗の開祖となりました。密教の勧請を空海に受けてやがて最澄は天台宗は密教と法華経の二枚看板路線の傾向を作り八宗兼学の基を作りました。やがてはそれは法然、日蓮、道元、親鸞、栄西、一遍など偉大な各宗祖を排出する基を気付きあげました書は王義之の影響が強いと言われます。山家学生式願文顕戒論などを表す。延暦寺を開山します。御真蹟でお解りになる様に弊作の弘法大師様の書と比較で単純で技巧的な味も無く墨つぎの妙味とか色々なタイプの字を集め味わい深さを感じさせる弘法大師様の書風とは違います。最澄んだ人最澄=伝教大師の文章のひたむきさは学者肌の書の素晴らしさを感じさせます。※顕戒論は長いので願文、山家学生式と違い一部しか紹介出来ません中央公論日本の名著で訳が有ります。未読ですが読書には勧めです。 伝教大師像 一乗寺この伝教大師の肖像をクリックして頂くと王義之と大師の字の比較を御覧頂けます。

伝教大師御真蹟久隔帖
伝教大師御肖像
顕戒論は左で紹介した全集で読みました。国立国会図書館所蔵本で御覧頂けます。※訓点無(旧の所有者が訓点を手書きで入れて有ります読めます)、内容は当然、同じであります。字をクリックして下さい12/63辺りから読まれるといいでしょう。 上は伝教大師様(最澄)から弘法大師様(体裁は弟子の泰範)に宛てた尺牘(せきとく)手紙で時代は平安時代(9世紀)の物(弘仁4年813)、久隔帖と呼ばれる国宝、紙本墨書で縦29.3㎝全長55.1㎝で冒頭の久隔清音から久隔帖と呼ばれます。最澄はこの年47は歳を迎え時の習慣として空海は祝いに「五八詩」(五八は40の意味、空海が作詞した中寿感興詩並序をさす。その詩は「黄葉山野に索く、蒼々として豈に終始あらむや嗟余五八歳、長夜円融念ふ、浮雲何れの処よりか出る、本は是れ浄虚空なり一心趣を談んと欲すれば三曜天中に朗らかなり」。最澄はその空海から贈られた前述の詩の序文の内容で「120仏とか方円図とか注義」とかの言葉を使っているがその意味が解らないので教えて頂きたいそしてお礼に私が作詞した詩を贈りたいと述べているのが大意です。現在は奈良国立博物館蔵です。画像をクリックすると書の観賞に役立つ訓点を御覧頂けます。
山家学生式、願文は傳教大師全集(比叡山専修院附属叡山学院)の訓点本を所有しておりますので訓点、書き下し、口語訳(私の訳なので正確ではないのですが字をクリックすると御覧頂けます。)
比較の為に弘法大師の風信帖を御覧になりたい方は久隔帖の字クリックして下さい。
                      漢文(白文)

久隔清音、馳恋無極。伝承安和、且慰下情。大阿闍梨所示五八詩序中、有一百廿礼仏幷方円図幷図幷注義等名。今、奉和詩、未知其礼仏図者。伏乞令聞阿闍梨。其所撰図義並其大意等告施。其和詩者忽難作、著筆之難改後代。惟示其委曲、必造和詩、奉上座下。勤附貞聡仏子奉状。和南。
弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上 高尾範阿闍梨所法前
此頃、得法法華凡本一巻。為令覧阿闍梨、以来月九、十日許参上。若有和上暇、必将参上。若無暇更待後暇。惟示指南。委曲尋申上。謹空   
                                                                                                       
                  漢文の書き下し文

 久く清音を隔て、馳恋は極り無し。安和を伝承して、且く下情を慰る。大阿闍梨の示す所の五八の詩の序の中、一百廿礼仏幷に方円の図幷に注義等名有り。今、詩を和するを奉るに、未だ其の知礼仏図者を知らず。伏て乞う阿闍梨聞令ん。其の撰する所の図義並に其大意等告施せよ。其和詩は者忽に作り難く、著筆之後代に改め難し。惟に其委曲示し、必和詩造り、座下に奉上せん。謹んで附して貞聡仏子に奉状。和南。
弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上 高尾範阿闍梨所法前
此頃、法法華凡本一巻を得て。阿闍梨覧せ令んが為に、来月九十日以て参上を許せ。若し和上暇有ば、必将まさに参上せん。若し暇更に無ば後暇を待つ。惟指南を示せ。委曲は尋て申上せん。
 謹空 
    

口 語 訳
      光明皇后・空海・最澄集       
※お願い私の口語訳です。急いで翻訳したのと専門に漢文を研究する者でないので不正確です。参考程度にして下さい。またなるべく見直して修正しますので暫く待って下さい。詳しい解説書がたぶん出版されておりますの必ず興味のある方は専門の学者の本できちんと調べて下さい。
                                           天台宗代表的寺院

                     寛永寺        三井寺     日光輪王寺        中尊寺
左は天台大師智顗の肖像法華経を解釈した法華文句や摩訶止観、小止観を表した。日本の天台宗はこの人の教えに影響を受けさらに顕密両統と言って顕教と密教の二本立てと言われていますが八宗兼学といって広く仏教学を学び後に優れた名僧を数多く輩出しました。左の画像をクリックすると法華経の動画や天台教学の簡単な紹介御覧頂けます。  伝教大師様が開かれた宗派は天台法華宗とも言います。そこで偉大な法華経の行者の弊作サイトをリンク設定します。あと妙法蓮華経の紹介(弊作)サイトもリンク設定致します。聖徳太子御真蹟法華義疏日蓮聖人御真蹟妙法蓮華経比喩品見本 比叡山延暦寺 天台宗二玄社すぐわかる日本の書  
右の2枚の画像は両大師が影響を受けた六朝(南は晋、北は北魏)の碑の画像です。ぜひ両大師の書と比較鑑賞する事をお勧めします。これらの比較を北碑南帖と申します。両大師の御真蹟は風信帖、久隔帖の最後の帖でお分かりのように南帖の影響下に有ります。一見してお解りの様に北の情念と申しましょうか荒く秘めた情念、譬えますと北方ルネッサンスのデューラ、両大師の書はイタリアルネッサンスのラファエル、レオナルド、ボッテチェルリの優しい甘美に譬えられましょうか。 魏霊蔵・辥法紹造像記  左は魏霊蔵・辥法紹造像記は右の初平公造像記と肩を並べる北魏書の代表的作例西暦500~504に刻まれたもの魏霊蔵と辥法が釈迦の像を作らせた由来が刻まれている北魏龍門の書体は方筆と言われている最上部に紹介している伝教大師様の御真蹟は中国の南北朝の王義之の書風(義之の影響は当時は誰でも受けたと考えた良いと思う)でありますがと同時に南北朝時代の北魏ではこの様な書風で画かれていました。北は碑文が多く南は紙で書かれた帖であるため北碑南帖と申します。陰刻です。 初平公造記  左は初平公造記 北魏のもの龍門石窟の代表的造像記の一つ西暦499年の北魏時代の物、此の時の中国は北は北魏、南は晋で上に紹介した傳教大師様、また弊作のウェブで紹介している弘法大師様の書籍はいずれも晋の時代の王義之の影響を少なからず受けております。名も風信(帖)久隔(帖)帖は紙で書かれて者でありましょう。それに対し同じ時代の北の北魏では碑が多く北碑と言われております。ぜひ少なからず六朝のそれも南帖(北の北碑に対しそう呼んでおります)両大師の書籍と比べて鑑賞する事をお勧めします。陽刻です。
参考リンク王義之の蘭亭序
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