聖徳太子法華義疏(伝承)
ホイヘンスは或る数学の問題の回答を見て「狩りの後の獲物の傷跡を見れば百獣の王の獅子かつまらない動物かが解る、この問題の回答を狩りの痕跡ならば名を伏せた解答者は百獣の王の獅子とも言えるニュートンに違いない」と言た。そんな話を聞いた事が有ります。紹介する法華義疏は制作者不明ですが状況証拠から先のニュートンの話の様に特別な百獣の王の獅子とも言える人が制作したと思うのです。飛鳥時代制作ならば紙は貴重な物ですがそれを切り貼りしている特別な立場の人、日蓮大聖人は使用後の紙の裏を使用している事から紙が貴重品であったかが解ります。また当時の識字率(脚注参照)から読み書きは特別の能力の持ち主。漢文は現代人は誰れでも読めるが当時は外語で超一級の文化人。三経義疏を読むと深い仏教の教えがまとめてあり並々ならぬ仏教学に精通した人。字の芸術性(現品を拝見して人間性の高さも感じました)の高さ。以上でで謎の人は聖徳太子様と思うのです。従って日本の問答形式の本を引用したと書いていますが実際は日蓮大聖人の(立正安国論)は終始一貫、問答形式です。問答形式の紹介にだけ太子のページを作るのは勿体ないので御自筆と伝えられている法華義疏を紹介します。御自筆の根拠は至文堂日本歴史新書の書道の歴史の堀江知彦先生の原文を引用しています。他の根拠は法蔵館上宮王撰三経義疏の諸問題、金治勇著を御覧下さい。三教義疏は実際に読みましたがそれを紹介し、仏典は自身が読んだ妙法蓮華経は弊作の法華経比喩品見本 (京都平楽寺書店)と維摩経は弊作維摩経入不二品紹介紹介しております。勝鬘経の一部は右下の赤表紙の写真をクリックして下さい。最後に著名人には色々な説、例えばシェークスピア別人説義経ジンギスカン家康影武者説光秀は天海謙信女性説和宮替え玉説徳川光圀は越後の縮緬問屋隠居三右衛門、徳川吉宗は徳田新之助、江戸町奉行遠山左衛門尉は遊び人の金さん、不世出のマラソンランナー瀬古利彦は三遊亭楽太郎だった。…太子様の御生涯にも色々な説が有り著作の真偽、人物の実像は悠久の時が経過して真実は永遠の謎ですが信仰の対象としての太子様は人々の魂の中に永遠に生き続ける事でしょう。
幼少期、壮年期までの御尊像、彫刻、絵画とも各時代、制作されております。
東京国立博物館法隆寺館
義疏の一部、写真部分をクリックすると原文、書き下し文、現代文(私の訳)の一部を御覧頂けます。法華義疏は現在は御物です。下は最古の肉筆法華義疏、厩戸皇子の書(伝承)と言われおりますが真実は不明今後も永遠に謎であり続ける事でしょう。そしてニャンと裏に文字の記載が無くこの義疏ためにだけ書かれております。なんと贅沢な事でしょうこれに近い時代の例は教養が無いので嵯峨天皇の李?詩集と光明皇后の楽毅論ぐらいしか知りませんが筆記者は余程の御身分の方の書だと思います。 南無仏太子像舜國作 鎌倉時代嘉元2年(1304)奈良・伝香寺 聖徳太子・二王子像 幽竹法眼筆 江戸時代 宝暦13年(1763)奈良・法隆寺 唐物御影の現品を拝見しましたが御物の御尊像となんら変わりありません 重文 聖徳太子孝養立像 鎌倉時代14世紀 茨城・善重寺 国宝 聖徳太子孝養像(聖徳太子及び天台高僧像のうち) 平安時代11世紀 兵庫・一乗寺  最古の肉筆法華義疏を出版した四天王寺会本法華義疏、聖徳太子1350御忌記念(S46年、西暦1971年)の表紙、クリックすると法華義疏、維摩経義疏、勝鬘経義疏、勝鬘経典の印刷された一部を御覧頂けます。 安田靫彦 夢殿 大正元年(1912)第6回文展絹本着色 東京国立博物館
至文堂の日本歴史新書の書道の歴史の堀江知彦先生の文章※恐れ入りますがスクロールして御覧下さい。
太子所縁の法隆寺、渡来系、その他の御遺品
日本書紀は或る時期から天体の事が記録され始めます。それまでは天体のなど全く無頓着でした。しかし在る時期を境にそうではなくなります。これは太子側近、秦河勝や周囲の渡来系の人々を重用した頭脳明晰な太子が摂政として蘇我馬子と実質に政治を司る頃からそうなって来たと思われます。太子は恐らく陰陽五行説を政治の中に取り込とした痕跡であろうと考えています。この一事でも渡来文化の影響は時代の背景として無視出来ない物の様に思われます。552年(日本書紀)の仏教伝来から22後、太子御誕生それから3年後百済より最新の技術を持った仏師、工人が来朝(書紀)し倭国の渡来文化受容熱は高まったと考えられます。その高まりを推進しようとしたのが曽我氏と聖徳太子であったのでは、仏教はその後、倭国でも発展しました。飛鳥期の美術を太子所縁の法隆寺の御遺品に面影をみて飛鳥期の御仏や工芸の代表的遺品を紹介します。建築は飛鳥寺は倭国のその頃の遺構にその伽藍配置は発見出来ず朝鮮半島、高句麗時代の清岩里廃寺跡に先例が発見出来る言われて来ましたが王興寺と言う遺構が発見され学説が変わって来たのです。御仏像は釈迦三蔵像は鞍作止利この人は中国南遼の帰化人、司馬達等の孫で作成様式は中国の北魏様式の影響が有ると言われアルカイックスマイル(古式の笑み)と言われています。もう1つの様式は中国南朝の様式の影響を受けたと言われる弥勒菩薩像と言われております。対象してサムネイルに収録してあります。詳しくは飛鳥文化を御覧下さい※サムネイルの御仏、工芸品の解説は全てではありませんが下のプルダウンリンク右から検索出来ます。また救世観音は次の様な伝承が有ります。推古天皇3年、淡路島に巨大な沈香が漂着し島民がこれを拾い集め燃やそうとした所、素晴らしい香煙が立ち上るので驚き朝廷に献上した以上は書記の22巻記述。太子はその木は南天竺の栴檀という芳香を宿す木(香木)でこれを入手し御尊像を刻みたいと願っていたのだが推古帝が御仏を深く敬うので帝釈天が贈り給うたと言い渡来の百済の工人に観音菩薩を刻ませ夢殿に祀る。これが救世観音で余材は太子、その他の余材も法隆寺と呼ばれる名香となった。これは扶桑略記水鏡に掲載されているらしいのですが私は読んではおりません。※香木に興味のある方ココ、クリックして下さい。書記と水鏡の記述参考サイトkotobbakです。

  

御即位20年記念

 特別展「皇室の名宝―日本美の華」

東京国立博物館 平成館 

1期:2009年10月6日(火)〜11月3日(火・祝)

2期:2009年11月12日(木)〜11月29日(日)
太子は勿論雅楽にも造詣が深かった事でしょう一つの伝説とし龍笛の名器、京不見(きょうみず)の御笛の話が有ります。この笛は伝説では太子の御作と伝えられ、四天王寺の宝庫に収蔵で、聖霊会舞楽で「蘇莫者」が舞われる時、「太子」の笛の役がこの笛を吹く事になっていた。四天王寺から外部に出た事が無く、その為「京都を見る事がない笛」という意味でこの名がつけられたと言われる。青葉雅楽会の雅楽小事典(き)をクリックするか南谷美保さんの論文ciNii…の所クリックすると論文御覧頂けます。雅楽器は弊作のページ思音の笛、雅楽名器一覧を御覧下さい。
 
上の会期は2期は、皇室の名宝です。聖徳太子像、法華義疏など聖徳太子ゆかりの作品も展示されました。右の画像は法隆寺、聖霊院に御祀られている国宝の聖徳太子像、胎内には聖観音像が有り、太子の本体は聖観音であると言う信仰を表しているのでしょうか作は平安時代です。画像をクリックすると右の御像と夢殿の御本尊の救世観音の動画が御覧頂けます。救世観音は長い間秘仏でしたが明治にフェノローサーらによって礼拝出来る様になりました。 右の写真は宝亀二年の寺印の印影大阪、四天王寺
参考リンク王義之の蘭亭序
御生涯の説明は飛鳥の扉聖徳太子の説明が要領よく解説されております参考にして下さい。