このページは私が制作した久隔帖を特集したポップアップです。
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願文(書き下し)
悠々たる三界は純ら苦にして安きことなく、擾々たる四生はただ患いにして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて、慈尊の月未だ照らさず。三災の危うきに近づきて、五濁の深きに没む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消え易し。草堂楽しみなしと雖も、然も、然も老少、白骨を散じ曝す、土室闇く迮しと雖も、而も貴賎、魂魄を争い宿す。彼を瞻己れを省るに、この理必定せり。仙丸未だ服せず、遊魂留め難し。命通未だ得ず、死辰何とか定めん。生ける時善を作さずんば、死する日獄の薪と(成らん)。得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。ここを以て、法皇牟尼は大海の針、妙高の線を仮りて、人身の得難きを喩況し、古賢禹王は一寸の陰、半寸の暇を惜しみて、一生の空しく過ぐることを歎ぜり。因なくして果を得るはこの処あることなく、善なくして苦を免るるはこの処あることなし。 
 伏して己が行迹を尋ね思うに、無戒にして竊かに四事の労りを受け、愚痴にして四生の怨と成る。この故に、未曾有因縁経に云く、施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入ると。提韋女人の四事の供は末利夫人の福と表はれ、貪著利養の五衆の果は石女担轝と顕はる。明かなるかな善悪の因果。の有慚の人か、この典を信じざらんや。然れば則ち、善因を知りて而も苦果を畏れざるを、釈尊は闡提と遮したまひ、人身を得て徒に善業を作さざるを、聖教に空手と嘖めたまえり。ここにおいて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を闕けり。謹んで迷狂の心に随ひて三二の願を発す。我未だ六根相似の位を得ざるより以還、出仮せじ。未だ理を照らす心を得ざるより以還、才芸あらじ。未だ浄戒を具足することを得ざるより以還、檀主の法会に預らじ。未だ般若の心を得ざるより以還、世間人事の縁務に著せじ。相似の位を除く。三際の中間にて、所修の功徳、独り己が身に受けず、普く有識に廻施して、悉く皆無上菩提を得せしめん。伏して願わくは、解脱の味ひ独り飲まず、安楽の果独り証せず法界の衆生、同じく如味を服せん。もしこの願力に依って六根相似の位に至り、もし五神通を得ん時は、必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。願はくは、必ず今生の無作無縁の四弘誓願に引導せられて、周く法界に旋らし、遍く六道に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで恒に仏事を作さんことを
願文(口語訳)
悠々たる三界(欲界、色界、無色界事ですが難しく考えず世中と考えれば良いのでは)はただ苦しみが多く安かな事はない、ごたごたして乱れている色々な生物(胎生、卵生、湿生、化生のこと哺乳類、爬虫類、昆虫、真菌か※解りません)は患いに満ちて楽しみはない。釈迦が亡くなってその太陽の様な徳は久しく隠れて、慈尊(弥勒菩薩の事で仏陀入滅後56億7千万年後に※長いです。救済に現れるとされる仏典などに阿逸多と仏陀に呼ばれて登場する実在の人が信仰の対象になったのでしょう)の月光の様な徳は未だにこの世を照らしてはいません。三種類の災は危うさは近づきつつあるし、五濁の(劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁、の悪世)の深きに沈没しそうです。そればかりか風の様に儚い命は保ち難く、露の様な体は消え易い。草ぶき堂は楽しみは無いとは言え、しかも、なんと老も若きも白骨を散らし散らし曝している。玄室(亡骸を修める部屋)は暗く狭いのに、しかも貴きも賎しきも、魂しいを争い宿ろうとする。人を見て自己を省みる、この道理は必す゛定まっている。仙薬(仙人の服用する長寿の薬)をまだ飲んではいない、彷徨える魂は留めがたい。宿命通(前世を知る事が出来る神通力)を私は未だに得てはいない、自身の死期をどうして知ることが出来ようか。(この現在)生ている時に善事を行わなかったら、死に日に地獄の(火の)薪となるであろう。そして得ることは難しく、(そして)移り易いのは人の身です。。起こし難く忘れ易いのは善行の心。ここで法皇釈迦牟尼世尊(覚者の仏陀の事)は大海の中の針を探す譬え、須弥山の頂きから糸を垂らし山麓の針に糸を通す譬へを仮りて人間の身の得難きを喩へ、古代中国の洪水を治めた夏王朝の聖王の禹王は寸陰を刹那様な短い時間の暇を惜しんで、一生を空しく過すことの愚かさを嘆いた。原因なくして結果を得る事の理はない、善行なくして苦悩は免れる事は理はない。 
 伏して自分が行い迹を尋ね思うに、戒を守らず密かに衣装、食、寝具、薬など助けを受け、愚かして色々な生き物の恨みと成る。このゆえに、未曾有因縁経が言うには、「施す者は天に生まれ、受ける者は地獄に入ると。」提韋女人は(前世で)衣装、食、寝具、薬など助け供養(供え養う)事は生まれ変わって末利夫人の福(皇后となることにより)と表はれ、貪著利養(欲深い貪りの)の五衆の果は石女(うまずめ※不妊の女性)担轝(皇后の駕籠担ぎ)と顕れた。明かなるかな善悪の因果。恥を知る人か、この法則を信じない訳にはいかない。そこですなわち、善行の原因を知ってしかも苦しみの結果を畏れない人を、釈尊(仏陀)は一闡提(仏性の無い救いがたき人)として遮断した、人の身を得て徒に善業を作くらないのは、聖なる教の宝の山に入って空で帰るようだと嘖めたのである。ここにおいて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿(はげた塵まみれの)の有情(情け有る物)、底下(最低)の最澄、上は諸仏に違し、中は皇法に背き、下は孝礼を欠ける人。謹んで迷狂(まよい)の心に随ひて三二の願を発す(起こす)。私はまだ六根相似の位を得なければ世間に出ない。まだ理を照らす心を得ることがなければ、色々な諸芸しません。まだ戒律を備えなければ後援者の法会に出ません。まだ智慧の心を得なければ世間人事の務に捉われません。ただし相似の位を得た場合は違いますけれど。過去、未来の中間(現在に)、修行した功徳は、独り私の身だけに受けません、広く人々にに布施して、全て皆んなに無上の菩提心(悟りを求める心)を得せましょう。伏して願うことは、解脱(悟り)の味ひを独りで享受しないで、安楽の結果を独りで悟らず法界(世界の)の衆生(生とし生けるもの)と同じく妙味(妙なる味わい)を服用しましょう。もしこの願力で六根相似の位に至り、もし五神通( 天眼通・ 天耳通・ 他心通・ 神足通・ 宿命通、要するにエスパーの超能力です。を得た時は必ず自分だけ悟り取らず、仏の位を得ることはしません、一切に執着しません。願うことは必ず今ま世で作意なく捉われ無きの四弘誓願に導かれ、周く世界に旋らし、遍く六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天人)に入り、仏国土を浄め、衆生を成就し、未来際を尽くすまで常に仏事を行うことを
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