天台法華宗年分学生式 一首
国の宝とは何なのでしょうか。国の宝とは正しい道を求める心です。この道心ある人を名づけて国の宝と言のです。ゆえに先の世の哲人は(中国春秋時代に管仲の尊王攘夷を旗印に覇者となった斉の桓公の子の威王「一たび鳴かば人を驚かさん」で有名な人)が言うには、「3cmの宝石10個、これは国の宝ではありません。世の1隅を照らす人こそすなわち国の宝なのだ」と。古代の哲人(後漢の牟融※ぼうゆう理惑論と言う本の著者で引用文がどの文献からかは知りません)がまた言うには、「良く発言する事は出来るが行動しないのは国の師で。良く行動して発言しないのは国に有用な人だ。良く行動し良く発言する事は国の宝だ、三種のうち、ただ発言もしない行動もしないのは国の賊である」と。すなわち道心ある仏の弟子を、印度では菩薩と名づけるし、中国では君子と言います。悪い事は自己に向け、好い事を他人に与へ、自己を忘れて他人に利益を与えるのは、慈悲深い事の極みです、釈迦の教えの中に、僧侶には2種種類が有り。1っは小乗の種類、2っは大乗の種類です。道心あるの仏の弟子、即ちこれは大乗の種類です。今、我が国では、ただ小乗のかたちのみが有って、いまだ大乗の仲間はいません。大道(大乗)はまだ弘まらておらず、大人(大乗の人、国の宝は)起こりがたいのです。誠に願うのは、桓武天皇の御願、天台の年分度者を。永く大類(大乗の人、国の宝)とし、菩薩僧としたい。その時はすなわち、枳王の夢猴(夢に見た猿)9匹が滑り落ち(足る事を知った10うち1の猿のみ残り後の9匹は滑り落ちた※悪徳僧侶が去る譬え)、覚母(智慧を生む母、文殊菩薩)の5駕(5のがご※仏陀の説法の5種類の菩薩乗の事とと思います)、うち3つの乗り物(3乗の乗り物※恐らく大乗経の事でしょうか)が数を増すでしょう。この心願は海の水を吸いつくし物を求め探す様な努力を忘れず現在を将来を利益して永い時間を経過しても窮まる事は無いでしょう。
 伝教大師全集 第1巻 1ページ目 比叡山専修院附属叡山学院編集の訓点の全集右の御真蹟と対象して書籍を読むのに役立てて下さい。
書き下し文
天台法華宗年分縁起 伝教大師御真蹟 紙本墨書 28.9cm×横340.3cm縦平安時代 9世紀滋賀 比叡山延暦寺 下の画像は1〜6通のうちの第6通目で天台に関する6ケ条の規定を掲げた物です 。
口語訳
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国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人言く、「径寸十枚、これ国宝に非ず。照千・一隅、これ則ち国宝なり」と。古哲また云く、「能く言ひて行ふこと能はざるは国の師なり。能く行ひて言ふこと能はざるは国の用なり。能く行ひ能く言ふは国の宝なり、三品のうち、ただ言ふこと能はず行ふこと能はざるを国の賊しなす」と。乃ち道心あるの仏子を、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己れに向へ、好事を他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり、釈教の中、出家に二類あり。一には小乗の類、二には大乗の類なり。道心あるの仏子、即ちこれこの類なり。今、我が東州、ただ小像のみありて、未だ大類あらず。大道未だ弘まらず、大人興り難し。誠に願わくは、先帝の御願、天台の年分。永く大類となし、菩薩僧となさん。然るときは則ち、枳王の夢猴、九位、列り落ち、覚母の五駕、後三、数を増さん。この心、この願、海を汲むことを忘れず、今を利し後を利して、劫を歴れども窮まりなけん。