子猿が金属よりも動物の暖かく柔らかい肌の温もりを求めた様に平安を落ち着きを安らぎの気分を求める人には金属の肌触りにも例えられる恐ろしく急いだ慌ただしい方法で茶を立てるよりも、柔らかで優しくって穏やかで気品があって美しい貴婦人の透きとおる様な光沢の肌や麗しい長い黒髪にも例えられる気品が薫る静かでゆっくりとした手前で茶をを立てた方が静かで平安で雅な気持ちを呼び起こす事は皆さんにも想像出来ると思います。例えそれが科学でその理由を証明出来なくてもです。
 そう考えると数寄屋芸術は宗教に近い芸術と言えるかもしれない。芸術によって俗なる世界から聖なる世界へ行く事の出来る可能性を持っているからです。
 それに対して欧州、合衆国の皆さんはこう反論するのは眼に見えている「日本の一遍上人よって生まれた時宗は念仏踊りによって宗教的悟入に達する事を目標としたと聞くわたくし達はダンスの様な動きも宗教的悟入の道であり時代の変化の激しい現代にはむしろ、わたくし達西洋のサロンの様に遅い手前を省略しダンスでも観賞しながら芸術の話でもしたほうが良いではないでしょうかと勧めているのですが」
 確かに時宗が激しく律動の早い念仏踊りで宗教的悟入に達しようとする事は事実です。わたくし達日本の人々は何も早い律動を全く否定する訳ではありません。
 例えばワーグナーが舞踏の聖化と絶賛したベートウベンの交響曲第7番の第一楽章の人を熱狂の様な興奮のに叩きこむの快速のテンポの素晴らしさ激しいリズムの素晴らしさはまさに天才しか作れない音楽です。
 しかし、この第7交響曲に“永遠のアレグレット”と呼ばれる第2楽章なかったら、この曲の魅力は半減した事でしょうし、さすがベートウベンあの第1楽章あっての第2楽章と言われなかったでしょう。
 この第2楽章には、跳躍進行的旋律も無く順次進行の旋律さえ出て来ない、最初ビオラのパートが同じ高さの音を繰り返し、その後も大して旋律線は変化をしないのにこの曲には大変な魅力があります。
 この曲の魅力は和音による所が多い事は御存じでしょう、それも恐らくは副三和音や借用和音なども使わない極めて簡単な終始形を使っていると思われます。そして第1楽章の熱狂のテンポとリズムに対称する様な静かな速度です。
 確かに現代の作曲技巧は、はるかにベートウベンの時代を凌駕している。しかし、ベートベーンは音楽史上希にみる超1級の天才である。
 何故か?速度を早め華麗な技巧を凝らした複雑な和声進行を施した駄作は星の数ほど有るからである。ベートウベンの天才は人間の精神には明るい熱狂の昼も休息の時間や深い思索の夜も必要だとこの作品で示している様でさえある。
 これは全ての西洋の大規模な奏鳴曲や組曲にも快速の後には速度が遅くなる事が有るのを見ても理解出来ます。人を素晴らしい興奮に誘いこむブラームスのハンガリア舞曲やドボルザークのスラブ舞曲のチャリティシュダンスやラベルのボレロの芸術性をテンポを、わたくし達は褒めこそすれ嫌わない。 

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だが、わたくし達が求めた世界はこれらの素晴らしい芸術舞曲の世界では無く、テンポの早い華々しい技巧を凝らした器楽曲の世界でもな


く、人間の声が歌うゆっくりとした の世界に近いと言えましょう。


 いいやもっと静かな世界、松風と形容される風炉や炉の湯がたぎる音、せせらぎにも似た茶碗に湯を注ぐ音、柄杓を蓋置きに置く音、着


物の絹ずれの音、外から聞こえる風のやんちゃに梢を戯れる音、そんな静寂の中に精神的意味を込めたり、感じたりしながら、わたくし達


はゆっくりとした音楽に例えるならば雅楽や琴の音に近い手前で美の悟入を目指すのです。


 そして音楽は確かにその精神が高貴で有って宗教に近い感情を呼び起こす事もあり手前に代表される数寄屋芸術に近い考えを含む場


合が有ります。


 しかし、欧州の音楽の殆どはその精神は大変高貴でも両者には全く事なる態度の差が有る。もうお気付きであろうがわたくし達は正座と


いう特殊な座り方を敬虔な態度を持って数寄屋芸術を宗教に近い物にしようと勤める。まかり間違っても腕を組んだり、足を組んだり頬杖


を着いたりしては数寄屋芸術を観賞しない皆様の音楽や舞踏がいかに高貴でもその観賞の態度が違う事はわたくし達が数寄屋で何を目


指しているか本質的に物語る事をどうか聡明な皆さんにたとえ数寄屋芸術が一方では遊戯の傾向が強い物でもそう理解して頂きたいので


す。



 もう少し一見不合理とも見える手前を何故尊重するのか説明して参りましょう。確かに先程おしゃっていたように数寄屋で舞踏を観賞して


茶や立華や香を観賞しても良いのです。 ダンスの例えばブルース、のステップ「スロー、スロー、クイック、クィック、スロー」と言うテンポ感


やチェックバック等の方向転換の技術は茶の歩き方や方向転換の方法と 本質的には変わらない物です。


 また社交ダンスがブルース、円舞曲、マンボ、ジルバ…の様に順番に段階を経て難易度の高い物に進んで行く事も芸術的肉体的表現な


ので当然同じです。しかし、その最も違うのはダンスにも勿論緩やかな速度の物もあるが律動の早さである。わたくし達は先程も述べまし


たが早いテンポ、強烈なリズム、さらに言葉を付け加えるなら素晴らしい芸術の 社交ダンスを絶対に否定はしない、西欧の一部の皆さん


の主張は早いテンポを認めるなら遅い律動の手前を止めるべきだ何故スピード万能の現代に遅さにこだわるのか肉体の動きなら早いダン


スを観賞し、茶はただ出せば良いと言うのが皆さんの主張であろと思います。 そんな茶の緩やかな律動の必要性の答えとして欧州の皆


様が良く知っている人物を紹介してみます、フランツ・アントン・メスメール氏である。彼は音楽的律動が病んだ心に安らぎを与える事を知っ


ていた。彼は磁気を帯びた楽器で管弦楽を演奏させ、磁気を帯びた窓の無い微かな光しか無い部屋で凝視と柔らかな手と磁石棒で触診し


たと言う。この時代の音楽は現代の音楽より多分速度もゆっくりとしていただろうが、それでも速度の暖、急、律動の強弱は当然あり、速度


は早く、律動は激しくなり、音量も大きくなる曲の頂点になると         

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