ただこの手前の考え方にも欠点が有ります。それは素朴な味の良さと言う物を忘れがちになると言う事です。
 立派な仏蘭西料理の味も素晴らしいが素朴な、たこ焼の味の良さと言う物も有る。さらに、わたくし達は毎日淡白な味のパンや御飯を、大層甘い果汁よりも何の味も無い冷たい水の味を食べたり飲んだりしても飽きないのは、それは素朴や淡白と言う事は実は大切な事であると言う事を物語っています。
 でも、たこ焼きしかおごる金しかないので毎回のデートの時にたこ焼きばかり強引に勧めるのでは女性に逃げられるでしょう、たまには高級な仏蘭西料理を食べさせる経済的余裕が少しはなければならない、手前は客を持て成す精神的余裕の行為である。またハイ!と茶を出す事はたこ焼き的素朴な行為です。
 だから素朴であれ、余裕的行為であれ最後は持て成しの心を持つ事が重要であるとも言えます。しかし、手前の思想は、素朴な行為それしか出来ないがためにそれを何時も強引に押し付ける事を嫌のです。先程の経済的にあまりに切り詰めてたこ焼きばかりを女性に強引に勧めて女性に逃げられた話を思い出して頂ければ理解していただけるでしょう。 だから幾ら文化的行為でも心の籠っていない行為は良くない、では、その心とは一つの例をお話いたしましょう。
 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)がまだ長浜城主だった時、彼は近所の寺にふと足を止め 茶を所望した。その時出て来た少年は佐吉(後の石田三成)と言った。
 少年佐吉は、この後の天下人に初め温めの茶をたっぷりと出した。さらに喉が乾いていた羽柴秀吉は、もう一杯茶を所望した。佐吉は今度はさっきより湯加減は少し熱く濃い茶を一杯目より量を少なく出した。
 すると秀吉は、さらに三杯目の茶を所望した。佐吉は今度は二杯目よりも湯加減はさらに熱く二杯目よりさらに量は少ない濃い茶を出した。
 この佐吉は、いかにも喉か乾いている様子で来た羽柴秀吉に初め温く薄い茶を大量に出し、二杯目の所望の時はさっきよりも当然喉は乾いていないだろうから茶も一杯目より、濃く、量を少なくし、三杯目はもう喉は二杯目の所望の時よりは乾いていないので二杯目よりさらに量は少なく濃い茶を出したのである。“茶はお客様と共にある”この話は  わたくし達にその事を教えます。
 手前は確かに素晴らしい芸術であろう、香道の手前では道具を置く瞬間や香炉を移動する時などの瞬間の動きを粗雑にならない様、厳しく訓練するとの事である。多分これは火箸で灰に作る模様や小さな香木がずれてしまうので香道は特に厳しくこう言う事を教えるのかもしれない。
 この様な訓練を重ねて行くと手は一つの生き物となり一つの芸術的動きは完成される。茶も香道程厳しくは無いけれど、そうである、それは昔の殿様は家臣に手前をさせる。その時名物と言われる家宝を壊した時は切腹です。
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上手な手前は殿様の前で手前をする家臣の命を長らえる大切な手段でもあった。道具の置き方、触れ方、拭き方、手前とは結局道具の扱いです。
 この命を掛けた道具の扱いは、やがて茶の手前に於いても手は一つの生き物となり一つの芸術的動きは完成される事になるのです。
 しかし、これらの動きは何も手前だけでは無い、真に名人と言われるピアニストは鍵盤に指が触れる瞬間が素晴らしい物であると言い、指先十本に眼が在ると形容される。
 手前もこれらの芸術と本質的には同じく、手に眼を付ける事を習練する素晴らしい芸術である。しかし、素晴らしい手前も亭主に人の心を感じる心の眼が開いていなければ何もならない事を羽柴秀吉と石田三成りの話はわたくし達に教えるのです。
 それでも、合衆国、西欧の一部の人である速度信奉者の皆さんは言うかもしれない 「手前の精神的意義は分かった、しかし、あの律動の遅さあれは酷い、わたくし達はサロンなどの社交の場でダンスを楽しむ、手前は精神だけにして律動の早いダンスでも観賞しながら茶や香や立華を観賞してはいかがでしょうか?」と。

 その勧めには賛同する所と賛同出来ないところがあります。確かに数寄屋は社交の場ではありますが社交以外に一応別の目的があるのです
 数寄屋芸術の目的は世界の宗教のほとんどに共通すると思われる神秘体験を目指すと答えましょう。ここで言う神秘体験はビクトル、ユゴー氏の小説にまで名を現す神秘家のスゥエディンボリ氏の様な神秘とは違うのです。この神秘家の経歴、著作の有無は知らないが、あれほどの仏蘭西の有名な小説家が知っている所を見ると余程の驚異的神秘能力を発揮した人なのでしょう。
 しかし繰り返しますが、わたくし達の数寄屋芸術の目指す神秘体験とは上記の人達が行った超常能力ではありません、ではどのような体験か、それは、わたくし達が住んでいる俗なる世界と聖なる世界を結ぶ悟入です。具体的には、美を観賞して得られる豊かな心の平安の世界とまずは理解して下さい。
 遅くて静かで決められた動作を繰り返す手前が見る人にも、それを実行する人にも心の平安を約束する理由は何故か?
 この理由を外の視点から考えて見ましょう。多くの人は愛玩動物を可愛がる、愛玩動物は孤独の人の慰めである、その理由は或る実験で分かります。
 その実験と言うのは金属製の親と動物の肌に近い材料の親を作って本当の親から離した子猿をその人工的疑似親に抱かせる実験をする。
 子猿は金属親と人肌親ではどちらが成長が良いかと言うと動物肌の親である。またこの子猿を脅かすと、金属、疑似動物肌の両方の親に抱かれている子猿は両方とも動物肌の親に保護を求め抱き着く。このことから孤独の人は動物の甘える態度なども可愛く孤独を癒す事になるのかもしれないことは勿論だが、動物の肌の感触に孤独を癒す安らぎを求める。とも考えられます。
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