しかし、小さな子供が「僕、叔父さんの事好き」と言えばたった一言で人間同志の好意は伝わる場合があります。
 声は犬が大きく動作も犬が大きく労力もはるかに犬が大きいのに、小さな表現方法、言葉による表現法を知っている方がその心を伝えられる。
 確かに文化とは幾ら精神的に大き労力を実行した行為(権力者の馬鹿げた記念碑などもこの部類に入ると思うが)でも、それを現す優れた表現技術や思想性なければ無駄になる事もあります。
 たから素晴らしい詩や音楽などの観賞を通じてその無駄な労力を使っていない有効な 表現法を学び生活に応用する考察を見付ける事は重要な事なのです。
 ハイ!と抹茶を出す事は一見労力もいらないし合理的な親愛を表現した行為に見える、これに引き替え手前を憶えるためには何百時間の訓練の労力が必要です。
 先程の子供が「僕は叔父さんの事好き」と言った表現は一見して精神的労力をあまり使わない点では大変合理的である。そして犬は力学的には大変無駄な労力を使って親愛を 表現している様に見える。
 だがそれは違う、人が言葉を獲得するには何万年の歴史が必要だっただろう、子供は、ただで言葉を決して覚えない“親の教育の労力の賜物である”なるほど肉体的労力は、精神的労力は子供は少なく親愛を表現した。だが考え方を変えれば犬があれほどの労力を使って人に親愛を示しても、この子供にかけられた言葉を憶えるための労力の非ではない。 手前は体の表現だから身体的労力も精神的労力掛も憶えるためには掛かる。だからと言って、実は色々の意味で労力の掛かってない愛の表現である犬の親愛の表現を使って皆さんの令嬢、令息がワンワン!と言って親愛を示すしたら皆様は嬉しいですか?
 手前で茶を出すことは確かに労力的には不合理です。しかし、それ以上に「この様に丁寧に労力を使って或る美的肉体的表現をして客に茶を立ててくれた」と言う喜びを、御客様に感じていたたく事が出来ます。
 労力を少なく愛を表現する事は大切です。だがある労力さえ惜しまず愛を表現する事はもっと大切です。先程の子供もも実は労力は少ない様には見えますが“文化”を考えれば実は大変な労力が掛かっています(ただし労力を掛ける事が全て言いとは決して言わない誤解無き様に)。
 ハイ!と抹茶を出す事は労力的には合理的かもしれないが愛を表現するために掛ける 労力を一つの文化的行為の範疇と定義すれば、ハイ!と抹茶を出す事は“文化的でも無く、愛情に基ずかない行為であり”犬がワンワンと親愛を示す程度の行為と何等変わらないと皆様は思わないでしょうか?
 また別の視点から手前が必要だった事を述べます、薬の単位は一服と言う単位で表現されます。茶の単位も一服と言う単位で現されます。恐らく両方とも薬の性質の濃い物だったのでしょう。                  
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話は少し脱線しますがこの薬としての話として古代中国の話をします。後漢も霊帝の御世になると宦官の力は強力となり政治は乱れ黄巾の乱と言う大反乱が起き郡雄は割拠する。 その時一人の青年が母のため大層高価な高貴薬、茶を買う、藁や莚を売る貧しいが品性卑しからぬ青年、劉備…こんな感じで始まる小説に中国の三国時代を書いた小説、三国志と言う物語を聞いた覚えが在ります。
 また鎌倉時代の禅僧栄西は、将軍実朝のために喫茶養生記を現し、茶の薬としての効能を説いている。
 以上の二つの事から(前の記述は架空の作り話だが)どうも茶は高貴薬だったらしい、この高貴薬を貴人に差し上げる時ぶっきらぼうに貴人の眼の前で抹茶を茶筅でバチャバチャと乱暴に立てて「ハイヨ!」と渡す訳にも行かない、例えその場に貴人が居なくてもゆっくり丁寧に茶を茶筅で立てて差し上げるのが道理である。
 ところで合衆国、西欧の皆さんがレストランで食事をする時に葡萄酒を飲みますが、その時、給仕係りの人は葡萄酒の製造年代やその他の記事が書いてある葡萄酒の表示を観賞するようにお客様に見せると聞いています。そしてゆっくりと丁寧に葡萄酒をグラスに注ぐ事は我が国の欧風レストランでも行われている様です。茶の手前もお客様に典雅な落ち着いた気分で葡萄酒を観賞してもらう欧州のレストランの習慣と同様の考えが根本にありそれを、さらに肉体的美的表現に高め生まれたと思って頂いて結構だと思います。
 また香も貴重品であり高貴薬であった。現在でも香を使った芳香療法と言う療法の学説があり香の薫りは体に良いと言う人も居るので現実に香を粉末にして薬として使用するのは体にも良いのかもしれないが貴重品とも高貴薬とも言われるこれらの品物の扱いが手前を生み出した源なのかもしれない。
 さらに香、茶、華は宗教と深く結び付いていた。これらの物を仏、法、僧、の三宝と父母、師長、にそなへ養うのを供養と言い花は、その創作過程で決まった動きが出来ないから仕方がないにしても、香を香炉にくべる時、或る程度の作法があったのは宗教上の本尊や父母、師長など目上の前で行う時これらの人物の前では粗雑な動作で行動出来ないので自然発生的に生まれたと思われるそして近世か現代に近くなって茶の手前を取り入れて整えられて行ったのであったろう。
 この答えに欧州や合衆国の皆さんは「手前はある程度の歴史の必然で生まれたにしても、しかし、忙しい現代生活にあって手前はもう必要が無いのでは?」と言われるでしょう。
 それに対しての答えは手前は美の世界に人を導き入れる手段の行為と考えていたたきたいのです。ハイ!とただ茶を素直に出すのは普段の生活では止むえないが、お客様を持て成す時は文化的に最高の美的身体動作の表現手段で持て成したいと日本の人は思ったのです。そして先程の説明を繰り返します。最も高貴なお客様や大切なお客様にハイ!と抹茶を出すは犬がワンと親愛を現すのと本質的には同じ、親愛の情は在っても表現が弊拙と日本の人は考えたと理解して下されは幸です。

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