その信長は茶の湯の愛好者であった。理由は二つある、一つは当時高価な茶道具は権力の象徴であった。それを持つ事は即ち群臣にその権勢を示す事であり自己の権力を顕示する欲望を満足させるものであった。 二つ目は、外交政策であった。当時有力大名には茶の湯を嗜む物が一つ目の様な理由で多く、それに彼も便乗すれば他の大名と外交関係を持つきっかけが出来るのです。 そして或る時、二つ目の理由が役に立つ時が来た。自身の茶会に託つけて彼が恐れる 美濃の大名、稲葉一徹を殺そうと企んだのである。 稲葉一徹を隣室で殺意を持って伺う信長、一徹の居る茶室の壁には「雲 横 秦 嶺 家 何 在、雪 擁 藍 関 馬 不 前 (雲は秦嶺に横たはって家何くにか在る、雪は藍関を擁して馬進まず)の掛け軸が掛かっていた。 その掛け軸の意味を茶坊主が一徹に問うた。この掛け軸の語句は中国唐時代の韓兪と言う人物の詩、左 遷 至 欄 関 示 姪 孫 湘(左遷せられて欄関に至り姪孫の湘に示す)の一説である事などを一徹は一々その由来を説明したのである。 隣室でこれを聞いた信長は一徹の教養の深さに感心し、自分の非を打ち明け許しを請い両人は和解する。 この時代本格的に戦火を交えれば必ず少なくとも何十、多ければ数百単位の人間は簡単に戦死し農耕国の我が国の農地は戦闘員によって荒らされ農民は苦しむ、時には戦いのため狂気の様になった戦闘員は敵の領土の農民を殺し農民の家に火を放ち女性を強姦し、その結果農地は荒れ農民は死に収穫物を奪われ、女性は犯され心に傷を負う、さらに見ず知らずの戦闘員の子供を宿す事もあるのです。 この時代戦闘は必要だったのかも知れない、しかしもし上記の様な平和的方法で戦闘が回避出来たら、西欧の皆さんは教養は糞の役にも立たないと言われましたがこの場面では教養は利休や織部の命を救えなかった数寄屋の教養は少しは人の命を救うのに役に立った様です。 織田上総介はその知力は抜群であり天才の範疇に入る人物である。しかし、その情は 残暴で秦の始皇帝と同じく虎狼の心を持つ人物である、そんな人物をも茶席の教養は平和と和解の道を選ばせたのであった。 次の話は古代である。高倉帝は庭の紅葉を愛した。ところが無情な野分(台風)は紅葉を散らした。臣下の殿守の伴造は、風雅を愛する皇帝に、その吹き飛ばされた紅葉の美しさを楽しんでもらえば良いのに、あろう事にか紅葉を集め燃やし、酒を暖めて飲んでしまった。恐らく回りの物は殿守の伴造は間違いなく紅葉を愛する風雅な皇帝に罰を受けるであろうと思った。 この話を聞いた皇帝は唐の白楽天の 送 王 十 八 帰 山 寄 題 仙 遊 寺(王十八の山に帰るを送り仙遊寺に寄題す)の詩の一説、林 間 暖 酒 焼 紅 葉 (林間に酒を暖めて紅葉を焼き)の詩の心を一体誰が教えたのか?風雅であると叱るどころか関心されたと言う。 |
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この時、権力者たる皇帝は怒る事、罰する事は簡単であったろう、しかし彼の教養は 風雅と寛容を罰の変わりに美しい詩を示す事で行った。 |
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