酒宴の目的である人間の情の交流とは何かを知らない人間関係を作るのが下手な人、 社会的に未熟な人と言われても仕方がない。このお茶けを使って友情を深める方法は恐らく万国共通だろう。 礼法はまず人の交友関係を深める最初の手段となりうるし、必ず必要な物だ、しかし、交友の真の目的は上記の様な遠慮の入らない深い友情である(ただしただ酒を一緒に飲んだだけで友情は深まらないが)。 だから人は言う「少々無礼でも歯に絹着せぬ人間関係から始めれば良いと」しかし、 それは誤りです。 芸術の創作でも上手、下手は別としても初めにきちんとした形式感を持った作品を創作する訓練をする事は実は楽なのです。 ただし創作でも形式が有る方が得意な人と自由形式が得意な人が有る様に交友関係でも礼法的人間関係が得意な人と、遠慮なき酒宴的交友関係が得意な人、両方が得意な人が居るのは致し方がない、だが、どちらも最終目的は友好を深めると言う一点に尽きるのです。 また、どっちが難しいの答えは創作が形式感の有る作品は一見不自由な様で実は易しい例えば和歌などの定型詩は言葉を或る形式に嵌めれば一応形になる。しかし、自由詩はそうは行かない一見自由であるが著しく不自由であるとよく言われます。 人間関係も同じで自由な人間関係、遠慮の少ない親子、夫婦関係の人間関係である方が或る意味では難しい。 ときめきの時間を一緒に過ごす恋人同志の時には魅力を感じていた二人も、夫婦になり互いに尊敬、魅力を感じる事は難しい。恋人の時には見られなかった地金を見る時があるからです。 催眠術で一番施術が難しいのは家族と言われる。威光暗示が効かないからである。家族は誤魔化しが効かないからだ。また宗教でも家族を信仰に導くのが上記の理由で最も難しい。 また社会で有徳者と言われる人の子息が社会的に著しい逸脱を示す事が多くある。この有徳者は社会は誤魔化せても子息は誤魔化せなかったのです。 この意味で基督は男の本性を知り尽くしたもと娼婦であるガテマラのマリアを信仰に導き、釈迦の大弟子は夫人と子息であり、孔子の何時も身近に居た人々が大弟子だった事を思う時、彼等はやはり偉人だったのです。 数寄屋芸術を学ぶ人が、教える人が、先に説明した社会を誤魔化した有徳者になってはならない、数寄屋芸術は保身と和の導入、人間関係の糸口であるが、前に説明した王莽や安禄山が使った諂いの術の心を恐れなければならない。 しかし、合衆国と西欧の皆さんはこう言うでありましょう「数寄屋芸術である茶、立華香は保身術と躾と礼による和の道と友好を発展させる人間関係の糸口になるかもしれない |
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しかし、わたくし達は貴国の茶の大家、千利休、古田織部が豊臣秀吉、徳川家康の権力者によって切腹させられ、説難を説いた韓非子が秦の始皇帝によって死罪を賜った事を知っている。 |
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