しかし、美しい彌子瑕の容貌が衰えると、この二つの事件を衛君は「ふん!こいつは俺の車に罪になると知って居ながら乗ったんだぜ!馬鹿野朗!飛んでもない奴だ!」また 果樹園の事は「大した奴だぜ!殿様に食べ掛けの桃を食はせやがった」と言ったのです。
それを韓非子は以 前 之 所 以 見 賢、而 後 獲 罪 者、愛 憎 之 変 也。(前の賢せられ所以を以って後、罪を得るは愛憎の変なり)二つの行為は前には賢いと褒められたのに後になって罪を得てしまったのは彌子瑕の行為その物が変化したのではなく“衛君の愛情が変化したためである”と説明しています。
何と言う権力者の気紛れ、まして間違って権力者に横柄な態度、横柄な口調で喋ってしまったら、この様な事を思う時、権力者に対し自分の過失で、その様な態度を極力取らない様にするため、権力者から身を守る保身の術として礼法を常日頃訓練する事は絶対必要だったのです。
日本では昔、殿様の身の回りの面倒を見る子供は(小姓と言う)は臣下の次男である。この子供は殿様の髪を剃刀で手入れして殿様の顔を少しでも傷付けると子供とはいえ切腹を命ぜられた。だから跡取りの長男は怖くて奉公に出せないのである。西欧の君臣関係がいかなる物かは知らない、しかし礼法と言う物が明らかに気紛れな権力を持つ人間に、なるべくすきを与えない保身の術である事は事実であろう。それを思う時、数寄屋芸術は自身にも君主にも安泰を守らせる保身の術の意義が大きい事を知るでしょう。
数寄屋芸術は保身術です。礼法とは基々強力な殺生与奪の権力を持った君主に対してまた或る集団に臣下が、または一個が遜り、災いを受けないための物である。歴史で礼儀を失したと殺された臣下は数知れないし、昔から個人が或る集団に対して礼儀を欠いたため仲間外れにされた例は余りにも多い(日本はこれを村八部と言う)。
儀礼も似たような所がある。ただ最も違うのは礼法は個人的で儀礼は集団的傾向が在ると思われる。儀礼の場合、個人は自我を押し殺し集団的礼や祭りに合わせる行為と言えそうです。
また数寄屋は礼による保身もそうだが敵から身を守る名残の作法も残している。我国の床は畳で覆われているが数寄屋芸術の作法は決して畳の継ぎ目を踏ませない、これはその継ぎ目から刀が差しやすく暗殺された人も居たので、そんな注意が習慣として残ったのだろう。
たにじり口と言う茶室の入り口は引き戸で、それは木の溝を移動する戸だ、狭い入り口の木の溝に数寄屋の作法は、まず閉じた扇を置く事を要求する、何故か?突然戸を閉められ首を切られる事があると言い、それを少しでも防ぐための自己防衛のためだと言う。 数寄屋芸術あるいは礼法はまず自己の保身、それによってもたらされる安心がひとまずの目的と言わねばなりません。
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