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切られたもう1つの池が姿を現す。

 2人は冬の、物憂げで時間の進まない様な気怠い、それでいてちょぴり優しい厭世的空気に包まれている夕暮れ迫るキラキラ光る

池を眺めながら歩いていた。

 私はふと光る漣を眺めながら 「さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」と口ずさむと。この池が湖に見えたのか女

は 「近江のうみ夕ふ波千鳥、汝が鳴けば心もしのに
古へ、思ほゆ」と歌った。急に女は切なく投げ掛ける様な、色っぽい艶やかな

、微かな微笑みを含みながら私と視線を合わせて歌った。

「茜さす紫野行き、標野行き、野守は見ずや君が袖振る」 この相聞の答えはたった1つしか無かった。 私は夕日が雲に影ると薄

墨を流したような優しい薄暗いさに包まれる武蔵野の寒々とした公園で、その寒々しさとは逆に茜色に美しく燃え香り立つ女への恋

の感情が押さえ切れずに。

 「紫の匂へる妹を憎く在らば、人妻ゆゑに我、恋めやも」と返した。私は「夫と兄せ、とは、いずれか愛しき?」と聞いた。 女

は黙って、私の右手を取って手を頬にそっと寄せ、「冷たい手、私が暖めて上げる、貴方の19歳の誕生日のお祝いに」と。私は、

限無くかなし(愛しい)と思って女を抱き締めた。私達はその日結ばれてしまった。

 妹と結ばれた日は妹の誕生日の7月7日。今、妹に生き写しの人妻と結ばれたのが、私の誕生日。余りにも出来過ぎている。

 女と別れる時、「明日、私の母の一周忌が在ります、貴方も一緒に来ませんか?」と言うと、女は「血縁でない私が?」と言った。

「いや、母はきっと喜ぶでしょう。人は誰でも愛していた行方不明の人が現れたら嬉しいと思うじゃ在りませんか」と言うと、「何

のことだか意味が分かりません」と女は答えた。「何でもありません妹は劇の好きな女だ

った。私も、この1年、劇を演じてしまった」と私は言った。「3月2日の夜に会いましょう」と私が言うと 「私は結婚している

から分かりません」と女。「貴方は必ず来る。劇の終幕は近かずいているから」「益々分んないわ劇だとかなんだとか」「私は、そ

の日まで免許を取ります。そうしたら、貴方を夜のドライブに連れてって上げよう」と私は立ち去った。 女は、私の姿が見えなく

なるまで手を振り別れを惜しんだ。

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