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った。

 この死に怯えるみずほらしい汚らしい魂は惨めであればあるほどに偉大な物、永遠な物に思いを馳せる。ところで私は神仏が現世

利益を与えるとは全然信じない男だ。しかし、霊魂の不滅、高貴な霊的存在は信じるし宗教的、奇跡を全く否定する訳ではない。

私は霊は肉体を持っていない人間、としか考えておらず肉体を持った我々には見えないだけで電車の中にでも一緒に乗って遊んでい

るんじゃないか、というのが口癖だった。

 聖書に天使とは知らず相撲を取ったヤコブが勝ってイスラエル(神と競う物、勝利者の意味らしい)と呼ばれたという話が在ると

、正しいかは知らないが聞いた。もしそれが真実なら霊的存在はそこらで遊んで居るのだ、母の霊も妹の霊も、なぜ私と話をしてく

れないのか私にはそれが悲しかった。

 話はそれてしまったが、私が思いを馳せる偉大な物は現世利益の主ではない。もし、そういう物が在るのなら、なぜ、あの悲惨な

戦争、世界大戦を止められなかったのか?

 思うに神仏とは人の愛、良心、宇宙に在る不思議な畏敬すべき真理の力だといつも私は解釈していた。科学を愛した私はそれを知

れば知るほど畏敬すべき驚愕する力、人々が跪かなければならない力が働いている事を確信するようになった。目に見えない病原微

生物が人間を淘汰する人には悲しい現実も生命の生体系の平衡を保つ働きかも知れぬ一匹の虫さえ私には創造出来ぬ。

 あまりにも自分とかけ離れているこの力しかし、確かにその力は私にも働いている。unknowableの力。でも、精神と生命を蝕ばま

れている今、逆にそれはさらに大きく見える救いであった。

 「宗教は大衆にとって阿片である」とマルクスは言い。「神は死んだ」とニーチェは言った。今、宗教は世界で皆死んでしまって

いるが、少なくとも私には少しの救いのようだ。「心、貧しき人は幸である天国は彼等の物である」私は言う「ああ、私の神よ、そ

の強力な御手でこの、いじましく汚い魂を救って下さい」と祈る。

 しかし、私は一方では自分自身に「もう、いい」と言っていた。精神のオルゴールが奏でる弦楽四重奏曲「死と乙女」の旋律そし

て悲壮交響曲第四楽章の死刑執行の様に聞こえる運命の銅鑼
は、私の命の上に何時響くのだろう?  「死のう」私は自殺を決心し

た。弱り切った体の私を家族も最近ひどく心配し初めていた。気力を振り絞って最後の思い出に未完成の聖母の絵、妹をモデルにした絵

を完成させて死のう、と思った。

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