また、わたくし達が何故滅びの美を貴ぶのか?もうお分かりでしょう、わたくし達は 不思議な力に学んだのです。
 花は枯れて人間に勇気を与える時がある、香は自らを燃やし、芳香を残し自らは灰になる。まるで独創的業績を上げながら遂にむくわれる事の無かった天才の様にです。
 地球と言う死によって新しい命を生む異常、その異常なる力、その異常な不思議な力が生み出した人間の救済者で、哀れな犠牲者である天才、それを、わたくし達は学ぶのです。 ところで信頼を紹介したのは、これらの人が死を余りに嫌がるのは実はもっと大きな命を否定する事、基督教が一見すると、これを否定する人々と同じ様に見えたから紹介しましたが実はそれは違います。
 わたくし達の数寄屋芸術の気風は、死や時にそれに近い犠牲的精神にも似た愛、奉仕を貴ぶ事がある事を紹介しましたが、この気風は日本独特の気風でもなく欧州で中世に生まれた騎士道の武勇、誠実、寛容、名誉、敬虔、礼儀、弱者への愛などの徳目に当然違う所は有っても、大変似ている部分が有ると言えば欧州の皆さんには理解しやすいと思います。 この騎士道に似た行為を今は武器を持たないから浪漫的騎士の道とでも無理に紹介すれば欧州の皆さんにはその印象を朧気ながら理解して頂けると思います。また、欧州、日本共に皆さんは騎士道など無くなってしまった今、この道はとうに滅び去った事と思われるでしょう。確かに、軽々しく命を捨てて国に殉ずる全体主義の騎士の道は滅びたかもしれません、また我が国の国教である自らを苦しめ死さえ恐れず禁欲的に多くの人に奉仕しようとする武士道は完全に絶滅しました。
 しかし自らの命を捨ててさえ人が多くの人のため異常なる力、愛をもって奉仕し努力しようとする時、母が、父が、子のため自らの苦労も厭わず自らは来世の幸福さえ願わず死の苦しみに瀕しても、これを育て慈しむ時、この異常ではあるが素晴らしい力を見る時、皆さんは、その中に浪漫的騎士の道の片鱗を見ないでしょうか?そしてそれは命を自分の暴力的権勢顕示欲のため売り物にするギャングの掟では決して有り得ないのです。
 わたくし達は天才の真似は決して出来ないでしょう。何故なら彼等は犠牲者であっても神に愛された人達だからです。しかし彼等の勇気は、困難にもめげず人が自由と平等と博愛と平和の努力を達成しようとする時、彼等が神から与えられた異常な力、愛はわたくし達にも生きるのです。いままでの色々な説明が牽強付会の傾向が強い事は認めます。
 しかし、また敢えて、こじつけをさせて頂けるのなら、それを浪漫的騎士の道と呼ぶのは誤りでしょうか。わたくし達の数寄屋芸術の最後の目的は、その人間の余りに強い自己の保存の欲求を押さえ生命を生み出した不思議な力、異常なる愛を行おうとする事なのです。自己の楽を押さえ人の為に生ようとする努力の道なのです。
 この時、人は少し死でいる事になる。これが奉仕の心で、それは西洋の人に理解しやすくするため無理に名を与えるとすれば浪漫的騎士の道とでも呼びます。そして数寄屋芸術は、この道の代償的行為の訓練を女性であれ、男性であれ遊戯の中に無理無く実践しようとする宗教芸術と考えて頂ければ幸です。
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時に皆さんの文化文明は余りにも偉大である、日本はそれに敗北した。だがわたくし達はルーズベルト氏が日露戦争の時、日本を庇ってくれた事、岡蔵天心の本を呼んだ人々が太平洋戦争中の爆撃から京都を守ってくれた事、蒋介石元帥が太平洋戦争敗戦後、日本をロシアと合衆国と中国で3分割して統治しようと連合国の一部から意見が出た時、猛烈に反対し日本を庇った事、また、フェノロサ、ハーン、マルロー、タウトなどの皆さんが 日本を深く理解した事を知っております。
 その様な皆さん、その様な人を生み出した偉大な文化、文明を信じて日本の芸術の真の心を理解して欲しかったのです。不信は相互の無理解から生じるからです。
 しかし皆さんのこんな悲しみの声が聞こえて来そうです「日本が西洋をこの上もなく 尊敬しているのも分かるし、数寄屋芸術が最も勧める奉仕の心、浪漫的騎士道的精神は 理解致しました。しかし、それは誠に残念ですが実際の生活の問題の解決に何の役に立たない弱い価値です」
 「自己犠牲的精神で生きよう、それによってもっと多くの人の幸せを願おうとする事を東洋の芸術が重んじるのは認めますが、命を捨てる掟ならギャングの掟の方がはるかに 強いのでは」と。
 わたくし達は先に右大将信頼を笑いました。しかし本当に、わたくし達は彼を笑えるでしょうか?死に対して敢然と向かう勇気は誰でも欲しい。
 しかし人間は弱い、誰が信頼を笑えましょうか、そうギャングの掟は強く、その暴力は大した物で彼等を見たら誰でも信頼の様になるでしょう、しかしギャングの掟は信頼の様な弱い人間を救いはしなかった。
 その弱い人間を救ったのはナザレに生まれた貧しい青年で、しかも彼は十字架に掛けられ死んだ。彼は神は誰の心の中にも住むと言った。貧しき者、弱い者にこそ天国の扉は開かれるとも言った。
 何も権力を持たない弱い浪漫的騎士道であったが、それはやがてローマの奴隷の心の中で生きる真の力に成ったではないでしょうか。ギャングの死に対する勇気は大した物であろう浪漫的騎士道心を簡単に駆逐するであろう。心も肉体も弱いわたくし達は簡単に彼等に負けるであろう。そして皆さんが指摘した通りこの道は実生活に何等、何等、何等全く役に立たない。だがその強いギャングの勇気、掟が人の心の支えになった話も聞かない。 だが暴力は、はびこり混乱が訪れる危機がまたやって来ないとは誰も言えない、皆さんの麗しい都もあのイザヤ書の予言「国々の誉れカルデア人の誉れであるかの麗しい神の門は神に滅ぼされたソドムとゴモラの様になるだろう…」と予言に歌われた神の門の様に成らないとは誰も言えないのです。
 その時、この本も歴史と言う夜空の暗黒の中に流れ星と成って永遠にを亡う、そしてこの芸術も滅びやがては忘れ去るれる。しかし弱い浪漫的騎士道だが本当にそれは弱い物だろうか?この道は実は遥か昔から有り人々を支え続けていた物だからです。 
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