信頼のしぶとさは確かに人情としては当然だが命の譲り合いを考えた時、みっともないの一言に尽きると日本人は考えたのです。 皆さんの文明、宗教はこの信頼のしぶとさと共通するところが有るとは感じないでしょうか?
 そして結論を言ます。滅びる事によって別の何者かを永遠たらしめたかったの答え数寄屋芸術の最終目的は奉仕の心、愛の心なのです。
 前に数寄屋芸術が天才から学び、また滅びの美、敗者の美を重んじ皆さんの文明を再検討し、今、長々と何故、日本に基督教が受け入れられなかったを説く理由は死を恐れ肉体の復活を信る事は、一つの生命の物質現象の永続主義性に続がり、死を恐れる事は人情として当然だが、あまりにそれを否定する事は生命の物質現象の永続主義性を願い過ぎ、もっと大きな生命体系をこの精神が否定する事に続がるのではないかと言う考えを述べたかったのです。
 だがここで天才や、滅びの美を重んじる事や、基督教的肉体の永続性の否定は一体、 奉仕と言う事、愛の心といかに共通性が有るのでしょうか?
 それを言う前にいいまで紹介した、しぶとさとは逆の或る意味では滅びの生命体系を基調とする特異な環境を持つ惑星を紹介致しましょう。
 どこが特異かと言うと次の数字を御覧下さい、+347、+135、−30、−143、−150、−200、−220〜230、これはこの惑星の近くや遠くに有る惑星の表面温度です。これは表面温度だけの事であって大気に酸素が有ったり水が抱負に有ったり その他の状態を考えると、どうもこの星は、個々に住んで居る人はそれを当たり前、平凡と何気なく思って居るようだ。しかし、この星は自然環境の夢なのです。
そしてこの星は地球なのです。先程の数字は左より水、金、火、木、土、天、海、冥の 太陽系の地球以外の惑星の表面温度なのです
 美しい花の咲く地球は宇宙の環境の異常なのです。どこが異常かと言うと生物を育てるため余りに温度、その他の環境の偶然が揃い過ぎている事や、なによりも生命をこの地球内で同時に育て、それを天敵などを作り滅ぼし、また別の生命へと移行させ命を循環させ全体としては調和を保っている機能がです。
 その異常機能を守るためには異常な心、愛と言う感情を持たなければならない、愛は犠牲的精神、奉仕を伴う行為である事が多い、愛の心は実は異常なのです。
 人間は自己中心的生き物である方が人情としては自然であるからです、生物は自己保存の本能を基本とするからです。
 しかし駅の構内一面に捨てられた煙草、観光地一面に捨てられた、ごみ、それを見る時幾ら人間は自己中心が本当の姿だと言っても基々、生物を生み出した、この宇宙の異常なる環境の星、地球には異常な感情、愛と言う物が少しは必要であると考えるのです。
 観光地に行き「俺はここに皆もやっているからごみを捨ててえよ」と思い、駅で「煙草をガムを皆がやっているから吐き捨ててえよ」と思うのは人間の感情として人間の生き方としては正論です。
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しかしこの宇宙の異常なる環境の星、或る生物を死なせ、或る物を生かし、またそれを死なせながら同時に全体としての生態系の平衡を生物の生死の持ち回りにより生命体系を守っている地球の一員としては否です。
 この星の生命を見ていると死と言う命の譲り合いの現象を土台として命が受け継がれて行く事を感ずる。死は実は生命の一部である事を感ずる。
 この星はわたくし達、人間の生活を支えるため多くの犠牲を行っていると感じる人は少なくない筈です。
 道徳を説きそれを行い最後には美しい世界を作り守ろうとする数寄屋芸術に代表される 日本的精神は人情に反した異常な芸術です。しかし、その異常が少しはこの世界には 必要と考えるのです
 そしてもう結論を言います。滅びる事によって別の何者かを永遠たらしめたかったかの答え、数寄屋芸術の最終目的は上記の不思議な力が行っている、不思議な力に似ている 奉仕や愛の行為の真似とも言える奉仕、愛なのです。
 ところでもう一方の大事な生命の行為、自己保存、特に人間の自己保存の異常に強い欲求はマルロー氏が述べた「死から何者かを奪い取る行為」は人間を一万年生きさせる程には長生きにはしなかったけれどその努力の変形は便利さを与えた。しかし、それを求める感情は立派な「死から何者かを奪い取る行為」です。
 何故なら突き詰めて考えると、この感情は自己保存の欲「死から何者かを奪い取る行為」の変型に他ならないからです。
 この事を例を挙げて説明するとこんな言葉がある「別れの辛さは半分死ぬ事と同じ事だ」と。辛さは死です。また、暖房をして暖まるのは確かに寒さから遠ざかり病から遠ざかりひいては死から遠ざかるのは、やはり「死から何者かを奪い取る行為」です。
 暖房が悪いとは言わない、しかし、その乱用が問題と言うのです。自然の山などに「俺はここにごみを捨ててえよ!」「煙草をガムを捨ててえよ!」と捨てる行為は人の時間を奪って人にそのごみを片付けさせる事は、或る人間の努力、言い換えれば生命を無駄に 消費させる行為、自分の楽と言う保存の欲求のため人の命を無駄に消費させる事に他ならない。酷くなれば自然の命を考える前に、ハイ!邪魔な自然は破壊しましょう!と言うだけです。
 もう我が数寄屋芸術が美を、それを作った天才を重んじた理由は今の説明で分かったと思います。天才はこの地球を生み、生命を生み、死の機能を生んだ不思議な力が生んだ 犠牲者、自分の人生を犠牲にして「死から何者かを奪い取る行為」の反対である自己を 可愛がる行為とは反対である人々に奉仕すると言う行為を意識、無意識の内に神に与えられた偉大な才能を以て行った人と数寄屋芸術、東洋芸術解釈したのです。
 この不思議な力で神の生け贄になり人々に或る時は芸術を以って人間の素晴らしさを、科学の天才は実質の生活の利益を与え人々に或る意味での生命を与えたと数寄屋芸術、 東洋芸術解釈したのです。 
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