そしてミサイルの代わり木々を銃の代わりに花を、憎しみの代わりに愛を不信の代わりに信ずる事を実行して下さい。そうすれば貴方達の文明に平身低頭致しましょう。
 日本の欠点が馬鹿馬鹿しい貴族主義、封建制度を永遠に維持しようとした事は認めます。しかし西洋の長所であり弱点は個人の肉体を永遠に維持しようと願い過ぎた事の様な気が致します。
 この事に関して皆さんの宗教である基督教を考えさせて頂きます。日本には基督教は或る時代以降急速には広がりませんでした。それは何故か?或る言葉を紹介致しましょう。 「デウス初メテ人間ヲ作リ給ウハ、ハライソテレアル(パライソ、テレアル、地上ノ 楽園)ト申ス所ニテ、アダン、エウ、ト申ス夫婦ノ物作リ候由(中略)、イマシメヲ、 ヤブリ候ニヨリ、デウス夫婦ノ物ハ、ハライソテレアルヲ追イ出サレ候、此物人間ノ初メニテ候由、、コノ儀ヲ持ッテ言ハバ、只今ノ人間現在ニテ、クルシミ未来インヘルノヘ、ヲツルコト、皆ゼウスノ、シワザナリ、ヲノレガ作リタル世界ノ人間ヲ悪江道落トシ、 マタ、ソノ人間ヲ、タスクベキト法ヲ弘ルト言ウ儀、首尾不合ナラズヤ」
 この文章の要旨は神は何故アダムとイブを自ら作る時に人をその様に誘惑に弱い体質に作ったのか?その誘惑に弱い人を何故悪魔に誘惑させたのか?そして今度は悪を犯した 人間を地獄に落とすと脅し今度は救世主を十字架に掛け人を救うと言う。
 この文章に代表される基督教の矛盾が日本に基督教を流行らせなかった理由ではありません、以上の説明は次に述べる本当の理由に対称させるため紹介したまでで本当の理由ではないのです。
 ではもっと決定的理由を説明するため或る人物を紹介致します。この説明は基督教が 個人の肉体を永遠に維持しようとした事、願い過ぎた事を日本人が嫌がった本当の理由ひいては「滅びる事によって別の何者かを永遠たらしめたかった」の答えの一つの要素があるのです。
 ではまず話を発展させるため、その人物を紹介致します。それは右大将藤原信頼である。彼は法王に右大将にしてくれと要求する。それに対し一人の権力者が猛烈に反対する。藤原信西と言う人物です。
 彼は「右大将とは摂関家でも特に優秀な人物しかなれないのに、こんな馬鹿な人物がなれるか」と法王に言いました。
 普通、官位は例えば左大臣ならばに左が着くほうが位は上だと思う。ところが右大将だけは別であるらしい。
 これは老子に平和な時は左が上、ところが争いなどの非常時、危機存亡の時に政治を任せる人は右が上と言う思想の影響かもしれません。
 とにかくこの官職は優秀な上にも優秀な人が成る習わしでした。信西は当時の真言の 僧侶と同じく支那から伝わった筮竹や算木を使う易占いの名手の系統に入る人でした。  
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この運勢の大家は信頼の人相を見たのかもしれない。彼、信西が信頼の人相を占った答えは凶であったであろう。信西は法王に唐の謀反人、安禄山の絵物語を作り献上して悪い家臣を持つとこう言う事に成ると献策した。しかし信西は自分の運勢は占えなかった。 の謀反で殺されたのです。そして信頼は念願の右大将に成る。しかし形勢は直ぐ逆転し彼は直ぐ行き詰まる。彼はここからが歴史上有名な人物なのです。敵が寄せると聞いて彼が取った態度は「顔色変わりて草の葉に違わず。南の階を降りられけるが、膝、振りて、をり患う」馬に乗りそこね反対側に落ちて「顔には砂ひしひしと着き、せうせう口に入り、鼻血流れ、事臆してぞ見えられける」味方の将、義朝に「日本一の不覚の仁」と罵られ鞭で頬を叩かれても何も言わず頬を撫ぜ、斬首される時まで、助けよーっ、助けよーっ、助けよーっと叫び続け「太刀当てども覚えねば、をさえて、掻き首にぞしてんげる」と言う有様でした。 この様な人を我が国の武の心の持ち主、西洋では騎士道を大切にする人々は最も嫌う。ところで武とは「死と言う奈落、永遠の終焉に対してさえ敢然と笑みを含み進み行きこの様な極限状態にあっても自己の弱さを乗り越え様とする勇気です」ところで人間の死亡率は100%である。こんな話をするのは皆さんの基督教の秘跡パン、葡萄酒はパンは、基督の肉、葡萄酒は基督の血の象徴と言われる。しかし最も重要な事は、ローマカトリック教会が、ルターがカルビンがツウィングリがどう解釈したかは知りませんが、このパンと葡萄酒は不死を約束する精神安定剤であると言う事です。日本人は死後の世界や死を恐れる事や死後の世界の存在を絶対に願う事や死後の世界の幸福を、人情としては当然だが、あまりにあまりに強く願う事を嫌う。それが日本に基督教を定着させなかった本当の理由と考えられます。 また日本人は死後の世界を形示上学的に考える事が西洋人の様に例えばダンテの様に 得意では無かった。その答えは単純で、現世、来世とも誠実に生きるなら、それが報くわれずとも大いなる物と言う考えで、来世が存在の有無は知らないが、もし在るとすれば来世は神が全てを見通すのだから誠実であればそれで良いと言う単純な考えです。この考えは目の前の物質的現象をのみを考える唯物主義とは考え方が違う事は当然で在る。皆さんは人間として来世を願うのは当然と言う。しかし、その考えにをかいて命の瞬間性、人の命が自然の命が本当に一回きりと考えた事が有りますか、もし自分の命が1個、2個〜千個〜∞に在れば誰が命などを大切にするだろうか時間的にもこの瞬間の命はやり直しが決して利かないと考えるのは馬鹿げた考えとは思えない。だからわたくし達は逆に滅びに意味を見出だすのです。わたくし達は滅びの美を観賞する事で、個々の死によって永遠に生きる、もっと大きな永遠に生きる生命体系の不思議さを学ぶのです。あらゆる命は或る生命が死ななければ生きる事が出来ない事を大切な事としてを学ぶのです。
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