また精神的にも、重労働に従事し筋骨逞しくなり、精神的にも逞しい動の庶民とは違う植物的気質、静的気質を感じる事でしょう。
 話をファションモデルに戻すと全ての人では無いかもしれないが、あれ程体型に無駄な脂肪が無い人が多いと言う事は食事の量が少ない人が多い筈だ、ところで旺盛な食欲それ自体は動物を連想するし、食べるその事自体動物の基本動作であり、その様な事を考えると以上の様な理由でファションモデルは植物的雰囲気を連想させ、人間性も表面上は(これは恐らく全く違うだろうが)夢想的、浪漫的感じを与える、逆を言えば動物的感じを与える人は即物的現実的雰囲気と言えます。
 また美しい物はその奇形と言う性質上、物の役には立た無いし弱いだから美人だけが世の中に増えても実に困るのです。
 ところで進化論では下等な種程、早く枝別れする、人間は最後に現れた。貴金属程少ないし、高等な種は少なく下等な物程多い、鼠を見た時どれも同じで猫より下等だと思う、犬はそれぞれ個性があり素晴らしい、まして人間は、それぞれ名前、個性があり自然界の奇形とも言うべき存在だ。
 しかし天才は上に説明した個性ある人間が十羽ひとからげに見える程の個性を持つ奇形中の奇形である。高等な生物程孤独の時を持つ、群れて生きる事もあるが年柄年中群れては生きない、それは個性(自我)が在るからです。
 その個性有る人間の自我より、さらに抜きん出ていると思われ、高等な生物が体験する孤独を、さらに生きる孤高の自我を持つ天才とは?彼等の人を引き付けて止まない魅惑の秘密とは?何なのであろう。勿論天才の力の秘密はその65%ぐらいまでは先天的に与えられた素質である。しかし残り35%の創造の活力の秘密は何なのかを知りたいと思うのは人情だと思います。
 先に美の事について色々有る考えのほんの一部を示したが、天才について考えるのは、この素晴らしい芸術作品である美を作り出した人々に天才と言われる人が多かったからです。
 ここで天才を語る初めとして一人の女性を紹介しよう、彼女は歴史の中で何等業績を上げなかった合衆国の哀れな女性である。たまたま先に美人の話が出たついでに美人である彼女を歌った詩を紹介致しましょう。
Annabel Lee

幾年か昔の事であった。海沿いの王領にAnnabel Lee と言う名で人の知る乙女の住んでいたのは、そしてこの乙女、私と愛し合っている事の外に余念も無かった。 海沿いの王領に私も童、女も童、しかし二人は恋にもまさる恋で愛し合っていた。
私とAnnabel Lee は、空に舞う至上天使でさえも女と私を羨んでいた程に。 その昔この海沿いの王領で、雲から風が吹き降りて美しのAnnabel Lee を冷やしたのは それ故か。高貴なやから訪れて女を私から奪い去った。この王領の墓に入れんとて。天上の及ばぬ天使らは女と私を羨んで立ち去った。誠にそれ故であった。(海沿いの王領で誰も残らず知っているが)夜半、風が雲から吹き降りてAnnabel Lee の冷たくなったのは。 しかし、私達の恋は、私達より年上の人の恋よりも私達より賢しいしい人の恋よりもはるかに強かった。御空の天使、海の底いの悪魔さえ私の魂を美しのAnnabel Lee から裂きえまい。
 と言うのは、月照れば哀れ美しのAnnabel Lee は私の夢に入る。また星が輝けば、私に美しのAnnabel Lee の明眸が見える。ああ、夜、私の愛する人よ、恋人よ、私の命、私の花嫁の側に眠る。海沿いの墓のなか、海際の墓のなか。                  

−5−

誠に美しい詩です。ところで今まで歴史に現れた全ての人類の中でその名を知られているのは、ほんの一握りに過ぎない。前に紹介した詩に歌われた人は西洋の人なら大抵知っている過去の合衆国の女性バージニアです。
 かなりの時が経った今、しかも、昔の、生きていた時は全く無名だった合衆国の婦人を日本人まで何故知っているのか?それは彼女の配偶者は天才エドガーアランポーだったからです。そしてこの詩はポーが、その妻を歌った詩なのです。
 長々と詩まで紹介したのは天才と言う物はその妻さえ記憶に止めてしまう精神的影響力を持っている事を言いたかったからです。そして天才は美を作り出した人が多い。先程、美は奇形と言ったし、またそれを作り出す天才も人間の中の奇形だと入った(外見ではない)未だそれが信じられない人のために、それをもう少し具体的に文学作品で考えてみましょう。
 カフカの変身と言う作品です。この作品を一言で言うならば「孤独」で言い尽くされる。しかし、カフカはやはり天才です。何故なら天才が何であるかを彼は本能的に知っていたからです。天才それは奇形、異常なのです。
 ただ孤独を言おうとするなら外に手段は幾らでもある。カフカの変身で最も重要な事は自分自身を現すのに醜い虫(奇形、異常の象徴で美とは逆の天才の象徴)を表現手段として使った独創性です。
 あの奇怪なグロテスクな虫を見た時の驚きと印象の強力さを、わたくし達は知っている。ただ違うのは、それが快いか恐ろしいかの違いのみなのです。
 カフカは恐らく孤独な人だったのだろう、そして彼は、その自分の孤独感を表現するのに作品の中で天才の本質、奇形、異常の型で自身を表現した。そのもう一方の奇形、異常の極の型である美ではなく醜さにおいてなのです。
 醜さを表現する事によって益々この主人公(恐らくカフカ自身と思われる)の孤独を読者に強く印象づける事に成功したのです。

-6−
目次のページへ戻る
前のページ 次のページ