ところで素晴らしい演奏家は聞き終わって、彼は未だ上手くなる可能性がある人だと感じる人とは言えないでしょうか演奏している時に即興的雰囲気を持った人だと言えないでしょうか。客が熱狂しているのに冷静な感じでしか演奏出来ない演奏家。逆に客が静かな時は情緒的に演奏すれば良いのに騒がしい感じて演奏する演奏家は演奏家として観賞していて楽しみの無い人とは思えないでしょうか。客の反応を無視しているからです。
 わたくし達は金を払って生命の在る今、現に生きている演奏家を見に行くのです。失敗した時いかに誤魔化すか、気分の乗った時、更に良い演奏をするかも芸術家でレコードは失敗はしないが、また良い時も悪い時も無い、臨機応変それも立派な芸なのです。
 どこの世界にレコードを演奏会場に持って来て金を取る演奏家が居るでしょうか、幾ら立派なレコードを作ってもそれは演奏家とは言えないのではないでしょうか。
 話をまた書に戻します。書の芸術で柔軟性と剛強性の二つを相兼ね備え持つ芸術作品は観賞の楽しみを与える様です。これは老子の言葉に「堅い物は死んでいるのと同じ」と言う言葉でも理解される様に作品に生気が宿って居るからでしょう。
 書の作品は臨機応変を(柔軟性)観賞し、剛強性とは訓練によって得られた線の力や確実性を楽しむ。書はこの二つの要素を兼ね備え持った作品で有ったほうが観賞は楽しそうだ。そして最後に作家その人、個人の持った造型感覚とその書かれている内容、例えば 古今集だったら、その作品に対して持っている愛情であろう。これらが無くただ作品を上手に写すのは人間書作品複写機とは言えなくない。
 以上の事から、ただ線の訓練された作品、ただ逆に柔軟性ばかりの型崩れの作品、そして最後に人間の感情の無い作品からは楽しみや遊び心が感じられない可能性も有るのです。 あまりに綺麗な文明はこれらの美を無くする可能性がある。物は何時かは必ず壊れる。その壊れる過程に美を見出だすのも芸術だ。木の建築、変化して止まない庭。ただ木を庭の配置としてしか考えず木の高さ揃え、決められた木の植え込みの面積を変えない西洋の庭に固定化を感じるのは美への無理解と言わないで欲しいのです。
 庭は生き物であり生まれ変化し死んで行く、木の建物は老朽化し木は大きくなり池は干上がり、また雨降れば溢れる。
 或る日常動作を洗練させる動作によって芸術表現を行う手前、その手前を行う茶は一期一会(一期とは一生の意、一会とは一度しか会ない事、つまり一生に一度しか会えない事の意味です)を貴ぶ。再現性の無いたった一回しか会えない美、偶然の要素が強く働く美 何故に数寄屋はそれを貴ぶか何故なら人は死ぬからであり物は壊れるからであり時の流れ、それはいかな物質文明でも止められない。止められないからこそ、その瞬間や偶然の物や人との出会を、壊れるからこそ今型を止めるその美を大切にするのです。
 東洋の芸術は出会いもそうだが偶然と自然でしか作れぬ物を大切にするのです。茶碗 庭、などこれらは世界に一つしかない物であることが多いのです。例えば西洋彫刻は一度元型を作れば複写は無限大である。皆さんの作り出した西洋文化は一度作れば大量にその作品を作る事の出来る物が多い。 
−3−
そしてなりよりもその保存性は抜群で強靭とさえ思われる。わたくし達が大切にしている美的価値、立花、香、数寄屋、諸々のぼろっちい壊れやすい芸術に対し西の芸術には死などと言う言葉は無いかの様です。
 時に更に驚くべき事に我が国の貴ぶ仏教では三具足と言って立花、香、燭台を必ず尊像の前に飾り貴ぶ事さえする。その内の二つまでもが直ぐ枯れてしまう物、一瞬にして薫りが無くなってしまう物、皆さんにしてみれば眉をひそめたくなる様な芸術的価値なのです。
 仏に捧げられる物、三具足、香炉=香、花瓶=立華、燭台=光。これはどんな象徴性なのか?燭台の光は命の象徴、香も命の象徴。これらはいずれも自らの命を燃やす、人間も酸素を燃焼し生きるのだからそれは直ぐ分かる。生きると言う事はまた同時に死に近付く事だ、つまり死ぬ事でもある。時間の経過で身を少なくする事も燭台や香と同じです。
 しかし、最も重要な事は身を減らして回りを明るくしたり回りに芳香を残したりする事が仏の人生と同じと人々が感じ尊像の前に捧げ、その象徴にした理由だと思います。
 だから光は優れた真実の徳を持つ人の象徴で、香もそうだ。香は貴重品で、更に燃えて回りに芳香を残す、これは犠牲的精神で世に奉仕する行為、あるいは自分が意識しなくとも神の生け贄として自ら身を焼き天才が世に文化的に人類に神に奉仕する事の象徴性とも思えるのです。
 そして最後に花の事を話します。その前に古事記の中の話、邇邇芸命は麗しい美人に偶い名を聞くと美人は「木花之作久夜毘賣」と言った。邇邇芸命は彼女の父に彼女を望むと父は姉の石長比賣を添えるが彼女は大変醜かった。邇邇芸命木花之作久夜毘賣だけを愛したのです。
 姉妹の父の神、大山津見神は恥て言う。「二人を一組で差し上げたのは石長比賣を側に置けば天の御子の命は雪にも風にも耐え常に岩のごとく、木花之作久夜毘賣を愛せば木の花の栄えるがごとくと思ったからです。
 でも邇邇芸命は木花之作久夜毘賣だけを愛した。だから天の御子の命は花の様に、人間の命は花のごとく短くなったのであると古事記は言う。美は虚ろい、はかなくてこそ美なのです。利休が菊の様な枯れにくい花を酷く嫌った理由はそこにある。恒常性は醜さ、その物です。
 ところで子供の頃、不注意で小さな可憐な花に水を上げるのを忘れて枯らしてしまい、ひどく落胆した事は無いでしょうか?何故その様な気持を花は起こさせるのか?それはきっと或る歌謡曲に、花を擬人化して、その花にこう言わせる台詞が、それが答えになるでしょう「一生懸命咲いて慰めて上げるわ、どうせ短い私の命、叔父さん見てて終わるまで…」花の命は短い。しかし花は弱くはかないが一生懸命美しく咲いて散ってしまう、そんな花の意地らしさ命の素晴らしさが花に愛を感ずる理由であろう、仏教は確かに美しさに執着する事を嫌う。
−4−
目次のページへ戻る
前のページ 次のページ