もう少し天才が無視された理由を考えて見よう。或る落語家は美しい花嫁の居る結婚式は静かで、顔立ちの悪い花嫁の居る結婚式は賑やかであると言っている。これは美人の方の結婚式に招かれた客が「畜生!旨い事やりやがって」と嫉妬するからです。一方顔立ちの悪い花嫁の客は心でこう思う「花婿、可哀想に」と言いながら嫉妬も無しに大騒ぎをするから賑やかに成るのですと。
 これは人間の嫉妬を言った冗談であるが、これは誠に浅はかな人間の心を良く表している。実はこれが天才が無視された理由の大きな一つである、そう才能への嫉妬です。
 たとえ才能が運良く先程のアーベルの話とは逆に人の認識する所になったとしても全ての天才とは言わないまでも多くの天才はこの受難を受ける確率は高い事は事実です。
 まして天才の作品は奇形である事が多い、今までの作品の形式を独創的に陵駕しているそれが今まで臨機応変が利かない通り一辺倒の創作しか出来なかった人々には無性に腹立たしいのです。
 或る教師からこんな話を聞いた事がある。「生徒が自分の知らない事を知っている時 ぐらい腹立たしい事は無い」と。まして天才が若く無名で力があり或る時、権威ある長老の先生に若い天才はその作品を見せたとする。その時その権威ある先生よりその若憎の 天才の作品が優れていたら、権威ある先生が往々若憎の作品を無視する事がある、酷い時には圧力を掛ける事があると考えるのは軽率な考えとは思えません。
 もう一つの理由はこの様な素晴らしい天才はその才能故に或る権威団体の利益を脅かすのです。涅槃教と言う仏典に一闡台と言う言葉が出て来て、やたらと一闡台を非難中傷し、やっと最後に渋々成仏を約束する記述が有ります。
 これは望月博士の研究によると仏典を書いた涅槃経系宗教団体と一闡台と言う言葉で表されている或る宗教団体とは別ではあるが同じ様な似た教義を持った宗教団体であると言ます。
 同じ日蓮宗系教団でも創価学会と立正校正会は同じ系統だから仲が良いと素人は考えるのだが実は全くその逆だそうです。
 理由は信者の取りっこによる利害です。基督があれ程独創的宗教的教えにもかかわらず十字架に掛けられたのは上記の理由に寄るのが根本的理由と思われます。
そしてもう一つの理由は天才=奇形人=異常人と言う等式を説明してきたが天才=天才自身の狂気(全てでは無いが病んだ心もその中に入る)を利用し一般人に潜む狂気を引き出した人と定義してみよう。普通の人間にも狂気は潜んでいると言えば「俺達は気違いかよ」と言う人は多い、でもこれは紛れも無い事実です。それをまず言葉によって考えて見よう。日常わたくし達の話している言葉は理性的言葉です。「あのこの仕事をお願いします」「はい分かりました」この様な感じです。ところがこれとは全く考え型の違う言葉使いをする人々がいる。例えば野球中継で「打者は4番シゲ島茂雄、投手王貞冬、投げたシゲ島打った、グングングングングーンと伸びた!あっ!キャチャーフライだー!」とか。

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また競馬中継で「外枠よりハイセイコー伸びた走れ、走れ、走れ、走れハイセイコー本命穴馬掻き分けて追い越せ追い抜け引っこ抜け…」その他、講談、落語、そして思い出して欲しい古い話だがオリンピックの有名なアナウンス「前畑頑張れ!前畑頑張れ!…」これらの言葉使いは先程の理性的言葉の表現ではない、これらの言葉使いは、聞き手の感情が盛り上がって来るとさらに喋り手も感情的表現を激しくして話をさらに盛り上げ喋り手の世界に引っ張り込む一種の詐欺話法がその大きな特徴なのです。
 この話法の表現ははむしろ人間の理性より情念、言い換えれば狂気に近い感情に訴える表現、感情的言語表現なのです。
 もうこう言えば一般の人にも狂気があり密かに眠っているに過ぎないと言う事を信じる事は出来るであろう。イスラム革命の熱狂した群衆を見て欲しい彼等は一人一人は話せば、ちゃんと理性が通ずる人々でしょう。
 ではこの言葉の力を未だ信じない人のために。一人の天才的扇動者を紹介しよう彼は ドイツに現れ暗い黄昏時の演説を好んだ理性よりむしろ情念に訴え掛ける演説の名手はやがて全ドイツを席巻する。この人物は言うまでもないヒトラーです。
 この大衆の眠れる狂気に訴え掛ける感情表現は何も演説だけではない天才の作った宗教芸術には何かしらの大衆の眠れる狂気に訴え掛ける感情表現が在るのではないだろうか? そしてヒットラーとこれら天才が最も違う所は一般大衆の無意識的情念(狂気)に永遠の付加価値を加え創造性を持たせた事なのです。
 一般大衆は狂気を忌む物として蔑視する。しかし狂気は本当に不必要な物なのだろうか?野球中継で熱狂する群衆、競馬で馬の走りに手を合わせて応援する紳士。
 これらの人々は何時も平凡の中にその日を生きる人々です。そして自分の才能も平凡と思い、その暮らしも日々単調です。その中に突然の熱狂、心のきらめき、狂気を見付ける事により彼等は生甲斐を見付けるのである。これは何も男性ばかりではない。天才の作った素晴らしい恋愛小説にもう男性関係に倦んでしまった女性が突如として少女の恋に憧れる憧景のまなざしを復活させるのです。そう日常の平凡は天才の恋愛小説に出会うとこの小説は或る意味では狂気の感情に近い純粋な恋愛感情の世界にもう男の本性に飽き飽きした筈の女さへ恋に生きる切ない甘い苦悶を与えるのです。
 時にヒトラーによって熱狂している大衆、またイスラム革命によって熱狂している大衆身近な所では大して素敵でも無い男性、女性に、この人々にお熱を上げている人達を見ていると不幸よりは帰って幸せそうです。
 彼等は実は喜んで或る意味では狂気にも似た世界に陶酔し、なによりも大切な事は自分に、この世界“狂気に近い世界に自分を引っ張り込んでくれた人”それを与えてくれた 人物に愛着を持ち尊敬しそれを非難する人は敵対意識さえ持つのです。
 しかし、冷静な人々はそうでは無い“狂気に近い世界に自分を引っ張り込んでくれた人”の素晴らしさも知っているがまたその恐ろしさも知っているのです。                  

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