だからどのような過程を経て虫に成ったかと言う理由を詮索する必要や虫その物の形態や細かい記述は実はこの作品ではどうでもよい。カフカのこの作品での虫の意味は自分自身を奇形、異常として表現した表現の独創性です。天才=奇形、異常の本質を本能的直感で表現した独創性をこの作品では観賞すべきと思います。
 題名も変身では変身した理由を読者に考えさせてしまうので私の本質(天才)とでも変えれば良かったかもしれない。しかし、わざと変身として読者に謎めいた変身劇を推理させたところがカフカの天才的なところかもしれない。
 しかし以上の解釈はきちんとした研究の上の解釈では無いので、この謎めいた変身劇の小説には別の本当の意味があるであろうから、今までの説明は冗談話ぐらいの程度で聞いて欲しいのです。ここで言いたかった事は天才=異常を良く現している様にこの作品が感じられたから引用したまでの事なのです。
 では具体的に普通の人と、どの様に天才はどこが奇形なのであろうか?普通の人は天才になれないのだろうか?その答えは「誰でも天才になる方法はあります、高校を卒業したぐらいの学力、否、中学の学力で十分天才になれます」と言うのが答えです。
 その方法と言うのは、タイムマシーンに乗って過去の、そう例えば日本人なら日本の 江戸時代に行って身分の高い脚気を患っていた将軍、徳川家持に麦飯を食べさせれば、 貴方は医学の天才として名を間違いなく歴史に止めるでしょう。子供の頃良くこんな話をして遊んだ物です。しかし、この類いの夢の様な話は天才の本質を誠に良く現しています。 例えば確かに中学生でも、この時代に行けば高貴なる家持将軍の脚気を直す事は簡単だ。だが、例えば、この時代に行ってライターを持って行って火を点けるのを見せたり、ペンライトを持って光を点したりしたら現代では誰も驚かないこれらの行為もきっと江戸時代の人には驚愕を与えて貴方は怪しい奴と言われて同心に捕らえられてしまう、今は決して見向きもされない平凡な貴方がです。
 天才とはそう言う物だ。余りにも時代にそぐわない素晴らしさ、仮に時代に合っていたとしても、人に「自分達には絶対に真似出来ない創造力を持っている、わたくし達、平凡な人間には出来無い事をやる人物だ」と人を驚愕させる創造的な力がどうしても天才には必要だ。だから現代でも自分は天才だと思っていて天才では無い「天才もどき」は幾らでも居る、しかし、その人達はやはり力不足なのでしょう。
 上記の様に現代人がタイムマシンで過去に行き、過去の人を驚かせ恐れさせた様な、そんな感動を与える力は上記の話の程度、程無くても、どうしても或る程度は天才には必要なのです。
 ベーブルースが60本の本塁打を打ったのは天才的な物だ。しかし、今では60本、 本塁打を打つ事は非常に大変に事であっても60本、本塁打を打つ人は現代には居る。
 しかし、ルースはこの時代にルース一人でナリーグの全本塁打数を打ってしまったのです。
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現代どんなに偉大な打者が出でもナリーグの全本塁打数を打てる打者は居ない。前記の説明で何故ルースが天才打者になれたか、それは力もあるが、その時代に独創的でなければ(後世にそう評価される事も同じ)天才とは評価されにくい。
 では現在、確かにナリーグの全本塁打数を個人で叩き出す事は不可能だ、しかし、天才打者は出る可能性は有ります。
 その人は記録も優れた人である事は間違いないにしても、もっと別の事、別の魅力を持っている人であろうと思う。そうしなければルースの時代を大幅に上回る独創性に匹敵出来無いからです。
 時に現代にビタミンBが、脚気に有効な事を知っていても天才にはなれ無い、しかし、昔に現代人が行けたら誰でも天才になれます。
 今パガニーニの演奏技術に匹敵する技術を持った人は幾らでも居るであろう、しかし、十九世紀に第二のパガニーニは一人として居なかったのだ。これが天才の一つの絶対に必要な条件時代を先取りした様な独創的力です。
 今の話を聞いて或る人が言った。「天才が居るぞ!彼は全く勉強もしないのに電話帳を全部暗記しているぞ!」と、しかし、この電話帳助君はこの電話帳を丸暗記した能力だけでは天才ではありません、天才は驚愕能力者では無い。人類の創造性に貢献し、またの様に全く勉強をしない人では無かった様です。
 中にはエジソンやニュウトン卿の様に学校の勉強は丸出駄目雄の人も多かったらしいでも或る目標のためには電話帳助君とは逆の正しい努力、言葉を変えれば素晴らしい信念を持って努力した人なのでしょう。
 天才の特徴として感じる事は、それぞれの性格、個性は絶対に違いはあるにしても、 創造的行為に対しては大変な強い信念と、それを実現させる絶え間ない努力を意志の力で保つ事の出来た人と言う事が言えるでしょう。
 信念と言う言葉で思い出されるのはヨガの「そう念ずる。そう信ずる。その通りなる」と言う言葉があるし、また昔から至誠天に通ず、鬼神も道を譲る、とか、聖書には「求めよ、されば与えられん」と言う言葉もある。また毛沢東も、「何か大きな仕事をしようと思ったら貧しい事、無名な事、若い事」の三つが必要と言ったと言う。毛沢東のこの 言葉は恐らくこの三つの逆、裕福、有名、年寄りは信念を持つには余りにも程遠いと思えたのではないか、特に裕福、有名などは信念より外の興味に、例えばローマ人の様に物を吐いてまで美味しい物を食べ様とする異常な美食趣味、ローマ皇帝にはコップを渡すだけの奴隷が居たと言う様な異常な贅沢、ローマ皇帝の正夫人にも関わらず夜は売春婦をしていた皇帝夫人に見られる様な飽く事の無い男女の交接の欲望、その他諸々権力による傲慢な感情などは人間を創造的信念に引き入れる前に人間を堕落させ科学、宗教、芸術を完成させ様などと言う信念とは程遠くなってしまう恐れのほうが強い、そう言う危惧を言った物にも解釈出来ます
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