その本質と言ってもそれは色々な考え方もあるから、そのほんの一部の考察を示す。例え話をすれば〔仕事する太郎〕が会社に出勤して来た。そうして会社に入ると蜘蛛の様な殻の固そうなピカピカした黒い気持ちの悪い大きな虫を見付け、嫌な気持ちになった。そうしていると憧れの〔美人美女子〕と言う美しい同僚に会い挨拶をし大変機嫌が良くなった。
 すると馬鹿社員、原田萬太郎が〔仕事する太郎〕に「おい!お前!香木と言う物を知っているか?」と言って香炉を持って来てその香りを観賞させた、しかし〔仕事する太郎〕は高尚と言われるその香りは今まで知らなかった香りなので、とても嫌な物に感じて顔を歪めた。
 また別の人の体験。危険遭代は朝、家を出ると空から突然、槍が一万本降って来たが、やっと逃げた、暫くするとキングコングが千頭追っ掛けて来たが、やっと逃げた、また暫くすると戦車が一億台、彼女を殺そうと追っ掛けて来た。
 危険遭代は「今日危ない体験に3回遭った」と言うであろう、では、質問。先程の〔仕事する太郎〕はどんな体験を何回したのであろうか?大抵はこう答えるであろう。「汚い物を1回見た体験と綺麗な物を2回見た体験である」と「香木の体験は彼の訓練不足で美とは感じなかったけれど美的体験だからである」と答えるであろう。
 しかし、これは誤りである。〔仕事する太郎〕は同じ様な経験を3度したにすぎないと言えば驚くであろう。通勤時に色々な物を毎日彼は見ているが、さして心に残らなかったしかし、彼は今日の体験は良く覚えていた。それは何故か?彼は奇形な物に日に3回も遭ったからである。
 美人や美男子の顔を人相学的に一言で言えば異相(奇形)である。美とは?と言う考え方には色々あるが、その一つの考え方の答えとして。
 美しい物の本質は一種の奇形であり異常であり、心に或る感動を与える一種の強力なエネルギーに他ならない。その両極の一方が醜い物であり、その一方の極が美しい物である。 そして美しい物は感じる事の出来る能力のある者(自然界では多く人間と思われる)に快さを、醜い物には不快感を与えると簡単に二分すれば良い。
 人はこう言うとびっくりするかもしれないが、繰り返せば、美と醜さとは奇形と言う事では共通の物である。だから〔仕事する太郎〕の体験はそのエネルギーを感じた事では同じ範疇の体験だったと言ったのです。
 そして美の中には醜さが、醜さの中には美が含まれる。例えばどんな音楽も不協和音が出て来なければ、それを解決しなければ良い音楽とは言えない、勿論ただ美しい音楽は 立派ではあるが不協和音の解決と言う考え方も少しは必要であろう。
 どんな芸術的香水を作り出すパヒューマもインドールやムスクの悪臭を薄めて美的香りを作り出す、あの技術の不思議さを脳裏の片隅に覚えているだろうし、真に優れた文学は美と醜さの共存を対象させる事によって深い感動を与える事が多いと言えば、それを理解出来るであろう。          

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美とは異常です、常では無い事なのです。普通とは同じ物では無い物なのです。美しい女優もファッションモデルも実は人相で言えば異相な


のである。他と違う所が有るからこそ目立つのです。老子はこの事を「世の中の人が美と醜さとは全く違う事だと考えている来れは良い事で


はない」と言っています。
 恋愛小説は美しいが恋愛の心理も或る意味では奇形、言葉を変えれば偏った心理であり異常です。そして、この


恋愛小説には必ずと言って良い程、美女が登場して来る。美は奇形と言ったが、ではどの様に奇形なのか例えばファションモデルを例に考


えてみよう。 ファションモデルの体型は背が高く体は細く体型は完全に縦型である。それは遠眼には明らかに直線的体型の方が強い力、


印象を持つからです。


 歩き方も同じで上下の振動を少なくし足が長い方が良いのは、伸ばした足の縦の力を強調する事によって印象を強くするのに有利だから


と考えられます。
顔も同じ事で鼻は鼻筋が通り、鼻の幅が或る程度狭く、横から見た場合、段鼻で無く曲がってもいないで真っ直ぐの方が遠


眼で見た場合、印象が強いから良いと考えられます。 その他、顔も小さく締まっていた方が良く、ブヨブヨした顔は良くない、それは遠眼が


利か無いからである、また眉、眼、鼻は直線的な顔が良い、理由は上記と同じです。


 また良い顔のもう一つの特徴としては、面でとらえられる顔が良い、では逆に一番いけない顔は円筒に眼、鼻がくっついて様な顔、眼や鼻


を描いた紙の絵を、筒に糊でくっつけた様な顔、曲面に眼、鼻、口がくっついた様な顔は良くないと考えられます。


 ところでウサギや動物一般は眼と眼の間が非常に広い。高等動物は逆に眼と眼との間が近い。この事から必ずしもそうとは言えないが、


人間の顔も眼と眼が離れている人は下等に見える場合が多いと感じられます。
 ファジョンモデルの顔は全てでは無いが眼が顔の中央に集


まっている人が多いと感じる。眼と眼がひどく離れている人は余り見た事は無い、これは眼と言う他人から見える視覚的情報が小さな面積に


集まっている方が遠眼が利くし顔が締まって見えるからと考えられる。 動物の話が出たので、それに関しファションモデルの体型を動物的、


植物的に分ければ確実に植物的である。



 理由は、まず身長が木々や花の縦に長いのを連想させる事と人間を除く多くの動物が四ッ足と呼ばれ背の低いずんぐりとした体型であ


る、この事からいかにも筋骨逞しい男に四ッ足の動物的感じを受ける事が多いであろう、逆に、背の高い均整の取れた体型の人からは植物


的感じを受けると言っても違和感を感じないと思います。



 また貴族は長い世代肉体的重労働から解放されたため、初めは背の低いずんぐり体型で有っても数世代後には手足は細く背は高く顔も


面長である。
 何故かと言うと科学者では無いから断言は出来無いが重労働をせず、おなかが減ら無いから食物を食べ無くなり食が細くなっ


て顎が発達せず、体全体の骨も細くなるからと考えられるからです。
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