相撲ばかりではない全ての日本のスポーツは礼を基本とする。ベースボールの様に審判をぶん殴ったり選手同志で乱闘をする事は絶対にない。
 礼とは相手に尊敬を現す行為である。これが出来ない人間は全ての人間に尊敬などされない人間であると日本人は考える、人を尊敬出来ない人間が人に尊敬される筈がないのは当然の道理です。
 だから先に例に上げたテニス選手が一流と評価されても、その行儀を見てただのテニス人間機械と日本人は嘲笑し軽蔑する。
 わたくし達は日常の喫茶の習慣に礼によって相手を尊敬すると言う行為を学ぶのです。皆さんの欧州、合衆国の心ある皆さんにこの考えの良い所を少しでも吸収して欲しいのです。
 また手前も紹介致しました。この行為を手短に言うならば愛と奉仕と言う無音の音楽で伴奏される美的な肉体的表現で茶を立てる舞いであるとでも理解して頂きたいのです。 この様な美的肉体表現で何を目指すか、最後に3っ程の例え話を、お話致しましょう。
文覚上人は出家する前は北面の武士でした。彼は人妻に恋をし、その人妻の手引きでその人妻の配偶者を殺す段取りを付けた。しかしさすがに段取りをした人妻は良心の呵責に耐えかねて、わざと自分を殺させるよう罠を仕掛け文覚は自分の最も愛する女性を自らあやめた。これが文覚の出家の原因だと言います。

 文覚は荒法師であった。ところでこの頃、西行と言う和歌の巧みな有名な僧が居た。そして文覚の西行に対する評価は次の口癖で理解出来る。その口癖とは「西行は何て奴だ 坊主が和歌など書きやがって、奴に会ったら叩きのめしてやる」と言う物でした。
 文覚の弟子達は西行と文覚が会うことを恐れた。血を見る事は明らかだったからです。しかしその日はとうとうやって来た。
 文覚の弟子達は文覚が西行を完膚無きまで叩きのめすのではと片づを飲んで見ながら、それを阻止ようと準備していたが文覚は西行に指一本触れる事は無かった。
 文覚の弟子達は師に聞いた「口癖の様に西行様をぶん殴るとおっしゃっていたのに何故そうしなかったのでしょうか?」と。
 文覚は答えた「西行は体は和歌その物になっていた俺などが殴れる相手では無かった」と。
 また一つの例え、都会の女性は何故垢抜けているか?都会は人を擦枯らしするが、全て悪いことばかりではない、その理由は都会はとにかく人が多い、それは人の眼を意識する事が多い事でもある。嫌でも人に見られ無ければならない、このことが例えそれが表面的な事であっても汚い格好を避けさせるのです。
 最後の例えは恋をした女性が美しくなる事です。何とかして愛する人に美しい姿を見せたい一心が彼女を美しくするのです。 
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美の求道者西行の美の探求は西行の行儀にあの荒法師文覚に指一本触れさせない威厳と風光を与えた。都会の多くの眼は女性を美しくする。恋は愛する人に自分の美しさを認識させたいと言う切ない女心の願いは女性を美しくする。
 手前の目指す世界もこれらと本質的には変わりはありません、それがどんな目的にせよ美しく見せたいと言う行為は人を特に女性を大変美しくするのは全く本当なのです。まして茶の手前の高尚なる目的を真に理解した女性が美しく成らない筈はないのです。
 その意味で茶の手前は日常の行儀を行う時の女性の美しさを表面的にも精神的にも高める最上の手段の一つと言えましょう。そしてその目的は、ただ上品ぶる気取りでも無ければ人を蔑む気持ちを養う事でも無く、その逆を目指す事によって得られる美なのです。
 聖武天皇の皇后光明子が、貧しい人々の体を洗ってやっていると、汚い皮膚を患った 病人がやって来ました。皇后は嫌な顔一つせずその体を洗ってやると、突然その病人の体は華厳経が説く遍く十方を照らす蓮華蔵世界の光明にも勝とも劣らぬ輝きを放たれ美しい御仏のお姿を現ぜられ皇后にこうお言葉を掛けられました「わたくしは貴方の真の高貴を大変嬉しく思います」と、そのお言葉をおっしれたのち、忽然と虚空の内にお姿を置かれて皇后のおそばを去られたと言います。
 この皇后の哀れみを持って貧しき人々に慈悲を与えた真の高貴な美しさを茶を愛する 全ての日本の女性が目指す事は今更申し上げるまでもありません。
 わたくし達が手前によって最後に目指すのは、この日常の行儀、心を変える事を皆さんに是非理解して欲しいのです。以上の事を学んで欲しいが故に教育過程に欠点があるにも関わらず数寄屋芸術を強く勧めるのです。またもう一つこの芸術を勧める理由は以上の様な意義に匹敵する美の観賞の意義を勧めたいからなのです。
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