第3章 愛
以上の理由で、わたくし達は美の観賞を重要視しました。それに対し西の皆さんは「なる程、数寄屋芸術の美の観賞の目的は分かったとしても何故、皆さんは数寄屋芸術である立花に枯れない科学繊維で作ってある造花を使用しないのか?何故あの茶室は木なのか?西洋建築が世界を席巻した現代に何故貴方達は所によってはコンクリートの茶室もあるが、古ぼけた茶室を貴ぶのか?何故一瞬の内に消える香を芸術の範疇に入れ数寄屋で観賞をするのか?わたくし達、西洋仏蘭西のランブイエ夫人が始めたサロンは皆さんの数寄屋と同じく芸術を観賞し次の芸術の創造を触発する場です。直ぐ枯れる花、香りが直ぐ無なる香古ぼけた茶室、撮影をしなければ残らぬ手前。皆さんの美から学ぶ姿勢は認める。しかしわたくし達はサロンを芸術観賞の場として勧める。皆さんが観賞する美は余りにも再現性に乏しく時間の経過に無力です。造花を使えば良いのに再現性、保存性に乏しい花を使い耐久性抜群のコンクリートの茶室を使えば良いのに時間の経過で色褪せる木の茶室を使う愚を犯すのであろうか?」そんな声が聞こえそうです。
 この質問は今まで説明して来たうち最も大切な数寄屋芸術の目的を説明する糸口です。ところで我が国にも造花は昔から在ったにも拘らず立花には枯れてしまう花を使う。
花なら未だ良い、香の薫りは花の命より短く一度薫りを発すればただの炊き空にすぎない。 何故この様な香を貴んだのであろう。理由は香は我が国に産出しない当時の舶来品、貴重品だったからです。この様な貴重品は、わたくし達に天然資源の大切さを教えてくれる。限られた物を消費する時、人はそれがいかに大切な物かを知る。
 皆さんの生んだ現代物質文明は物質は無限に有るという錯覚を人に抱かせる。しかし、限られた高価な物を消費する時、自然がいかに大切な物であるかを改めて知る事は悪い事で有ろうか?
 たかが一つの薫り皆さんはそう言う。しかし皆さんの誇る香水はトップノート、ミドルノート、ラステッイングノートと時間と共に薫りを変化させる時間芸術で有る事を是非、皆さんに思い出して頂きたいのです。そして香木は人為で作った物ではない。一つ、一つ自然が偶然に薫りの個性を与えた物です。
 そして、その薫りを観賞する時わたくし達は偉大な宗教の禅の呼吸法と似た呼吸法を学ぶ事も心掛けるのです。
 ところで香木の薫りは火加減が強くても弱くても香木が持っている一番良い薫りを発揮しない一つの温度範囲内でなければ香の良さは発揮出来ないのです。
 それはどんな芸術にも共通する事です。例えばピアノの弾鍵、書の筆跡、野球の打撃、ゴルフのショット、皆、或る水準の瞬間技術の完成度を追及するスポーツ、芸術です。
 皆さんがあまりに、はかなく芸術の対象にならないのでは無いかとおっしゃる香もそうなのです。

−1−

またハンドスカルチャーと言う彫刻がある。香木の外見は一種の抽象彫刻である。また荘子に名は実の賓とある。わたくし達は香木や芸術作品に文学や地名や、その他諸々の雅な名前を施し、美術品を賓客足らしめる。それは仏蘭西に盛んな香水の多くがParfum De fleur 幻想香水でありOPIUM LAir du Temps" EAU ARPEGE 等の名を冠して、その作品の薫りの連想された世界を楽しむのと何等変わらないのです。 我が国の美術品もその名によって、それを観賞し、さらに名によって想像を与えられた世界に悟入したり、あるいは与えられた世界に反発して「名と違う」などと言いながらそれ等を楽しむ、これが一瞬に消えてしまう香と言う芸術に対して我が国が行って来た態度です。
 ところで綺麗過ぎる文化芸術を考えてみます。芸術作品は時にそんなに綺麗じゃ無い事を人は知っている。生の演奏などです。レコード芸術、映画、テレビジョンは確かに絶対に失敗しない。即席食品の味は泥臭くない。即席食品はまずいと言う人が居るが恐らくそれは間違いでしょう多くの研究者やモニターを使い美味しい味を科学的に研究しているからです。しかし即席食品には欠点がある。確かに美味しいが、それを食べ続けると、その味の系統しか美味しいと感じなくなる恐れがある。色々な食品には初めて食べた時は美味しいと感じない泥臭い食品が有ります。
 それに慣れる事によって、その美味しさが初めて理解出来る食品がある。ところが即席食品は平均して多くの人々に美味しいと感じさせる事は得意かもしれないが、個性的味を観賞する方法を駄目にするのです。その他として料理は、特に家庭料理は、その制作者の愛情を感じて食べるのであるからその点でも即席食品には問題が有るがそれは言わない。 芸術作品も文化も人間も同じです。必ずしも初めまずい嫌だなと思った人が、文化が 芸術が本当に価値の無い物とは言えない可能性がある。(最も素晴らしい芸術、文化、食物、人は普遍的特質も兼ね備えており最初から素晴らしいと感じる可能性が多い事も事実であろうが)。
 時に人間の愛は口から発達して行くと言う。食物の好き嫌いの激しい人は本質的に人間の好嫌いの激しい偏った性格の人が多いと言う。
 即席食品は確かに美味しいが泥臭い物、個性的な物は全て嫌と言う偏った性格を作り出す欠点が無いとは言えない、また大量に同じ味を作り出す無個性の象徴です。
 話は、またレコード芸術の話に戻るが、確かにレコード演奏は失敗しない。印刷の字は毛筆に比べ整っている。西洋の庭は石で出来ており植物も一つの塊や配置として刈られ 自然その物を意匠は在るにしても偶然として見せよう生かそうとする東洋の庭とは本質的に違う様です。
 ところで失敗しない演奏家は必要であろうか?書は芸術として成り立たないのか?書の観賞法の一つは造型感覚と線的芸術の、その線の剛強性と可塑性を観賞する事かもしれません。
−2−
目次のページへ戻る
次のページ