大衆は一人の天才のために努力する事がある。言葉を変えて言えば天才は大衆のあるいは個人の努力をまんまと盗み、またその盗むのに間合いが良い時期に居合わせた大泥棒なのです。 ニュートンは「もし私がデカルトよりも遠くを見る事が出来たとしたら、それは巨人達の肩の上に立ったからである」と言ました。 ニュートンでさえも、もし別々に発達した微分法、積分法が両方揃っていなかったら、この二つが深い関係にあり、それを統合する考えが必要とは考えなかったでしょう。 つまりニュートン卿は先人の考えをまんまと創造的に盗んだのである。そして栄々として二つ別々に多くの人により発展させられた微分法、積分法は遂に統合者としてニュートン、ライプニッツの名を最も有名にし、先人は大衆になってしまったのです。 もっと酷い泥棒もいる。「占星術は母娘である、娘が稼ぎに出なければ母の生活は成り立たなかった」こう言ったケプラーは師であり、天文学者よりはむしろ占星術師に近かったチコ、ブラーエが観測した膨大な天体観測資料で真理に達したのであった。だから天才は大衆のために生れる犠牲者になったとしても何も文句は絶対に言えない場合があるのです。 ところで本地垂迹説と言う思想が仏教にある。仏、菩薩が本地に近付けない衆生のために仮に神に姿を変えて衆生を救うと言う教えである。これを、或る宇宙の偉大な力が人間を哀れんで、或る人物を救世主として世に現すと解釈致します。 インドの釈迦、希臘のソクラテス、その他…この思想で天才を見る時、神の計らい天の配財を感じる事は出来ないでしょうか? 大衆が天才に偉敬を感じ時には尊敬さえしても、決して天才に成ろうと努力しようとしない理由は、それは凡人は天才にはなれないし成る必要も無い、天才は垂跡思想的に考えると救世主的存在だが同時に生け贄の傾向が著しく強い人物とも言えます。 彼等の生涯を見ていると不幸の代償に素晴らしい創造を成しへ時に名誉さへ与えられる。しかし、その名誉も時に不幸の初めと成る事さえあるのです。 生け贄の牛は祭りで殺される時、美しく飾られる。この言葉で或る人物を思い出さないだろうか?例えば基督もそうでは無いのか?またソクラテスも天才は名誉と共に不幸を背負う事が大変多い様に思えます。 今一度繰り返し言ます、現代の天才には当てはまらないが、この様な傾向が一時代前の天才に強く働いた或る性質の結論を言ます。天才とは神が神の栄光を現すため神自身と大衆のために作った生け贄、素晴らしき力で神と大衆に奉仕する生け贄なのです。 こんな話をすると或る人は言うかもしれない「天才は世界に役に立つから天才を教育を充実させて作ろう教育さえ素晴らしい物ならば天才は作る事が出来る」と、この答えは 簡単である。“優等生を故意に作る事は出来ても天才を故意に作る事などは絶対に出来ない”それを例えで説明致しましょう。 |
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確かに教育は大切な物である教育はやはり天才を生む原動力であろう、どんな素質の有る赤ん坊も教育が無い無人島に置き去りにすれば鳥や獣に食べられるのが関の山です。 |
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