哀れなる魂  破の段 第3部 シベリア人

ロシア語でソビエト人に「日本製だ」と言うと。

 ソビエト人は握り拳を作りその握り拳を作った手の親指を突き立てて俺の体の前に出して必ず自慢げに言

う「ロスキーー」と。これはソビエト人が作った、の意味だ。ジープでも確か米国のスティールベイカーと

言う英語が入った文字が、はっきと分かり、ソビエト人にまた米国製だ、と言うと、かの親指を突き立てる

「いよ!18番」とでも言いたくなる動作で自慢げに「ロスキーー!」と言うのだった。

 ちょっと理性のある人間ならこんな事は認める筈だ。しかし彼等は国家を盲目的に信じていた様だ。トロ

ッキーの裏切られた革命、俺がこの本のお陰で進省堂を止めさせられたあの本の中で、スターリン体制を批

判してこう言っている。「勿論、どうして、また何故に、あらゆる諸思想中、1番貧弱で且
つ最もを誤謬犯

している分派が全ての他の諸派分派に打ち勝って、その手内に無制限の権力を集中したかと言う事は
………

依然不可解である」と言っているがスターリン政権が嘘臭いソビブルSovbour、ソビエトブルジゥワ

の贋政権、反革命の犬の集団の独裁的物だったら、それを許したのはトロッキーは分からなかったかもしれ

ないが不可解でもなんでもなんでもなく、この国家に盲信的な馬鹿さ加減、権力に直ぐ尻尾
を振る犬根性が

その理由だと俺は思った。

 またトロッキーは裏切られた革命で言う。「民族の受賞詩人が指導者を称えて歌う頌詩を毎日ロシア語に

翻訳して発表している。だが、こ
れら頌詩は実際には、みずほらしい詩であり、それらはせいぜい奴隷根性

の程度や才能不足に違いがあるだけなのだ」と書いている。

 ソビエトと言う国はスターリンをただ手紙の中でダルマと書いただけで強制収容所にぶち込まれる社会な

のだ。後年、俺はソルジェニッイ
ンの「イワンデニソビッチの1日」と言う小説を読んだが、大した小説と

は思わなかった。

左はラーゲリの模型とソビエトに収容された日本字捕虜

 左はスターリン右ソルジエツィン トロッキーの言う様に革命は裏切られたと言うのは正しいと思います。下の記事クリックYouTube - アンジェイ・ワイダ:「カティンの森」(1) だからソビエトは崩壊したのだと思
います。
 

しかし、やはり彼は偉人なのだ。何故なら俺の記憶が正しければスターリンを「ダルマ」と書いて強制収

容所へぶち込まれたのは彼自身で在りそのソビエト社会で、あの強制収容所の生活を表す事は死を掛けた奴

隷根性への断固たる挑戦だからだ。

 話を炭鉱生活に戻そう。こんな炭坑生活が馬鹿馬鹿しかった俺は、専らサボタージュ専門だったので外へ

回された製材所へそして食事の黒パンも、まま成らなくなった。その後カンガウスのコルホーズへ行った時

の事だ。黒パンもまま成らない日本人はどうしたか?答えは収容所の周りの草が無くなった。と言うのは草

を取って湯でお浸しにして岩塩をかけて食べたからだ。

 しかし茸を食べた時それが毒茸らしくて俺は頭がボーとして、ふらふらしたので、それから茸は食べなく

なった。
そして田舎出身の兵隊に、たらの芽、と言う物も教わって食べた。更に伐採の強制労働の時、松の

実も食べた。日本の松ぼっくりと違ってソビエトの松ぼっくりは大型でしかもその中に松の実が入っていた。

 強制収容所で支給される黒パンだけでは蛋白質が補給出来ず命を継げる事が出来ないと思った俺は、よく

蛇を食った。まず奴の頭を踏んずけるんだ、するってーと蛇の野朗それでも足に巻き付くんだ。そんな事は

知ったこっちゃ無い、そして頭から皮を取るとこれがズルと抜ける。それを焼いて食った。鰻みたいな味が

して旨かった。その他、犬蛙、鼠なども食った。そして終いにゃ蛇がどっかに居なくなっちまいやがんの。

 そして山葡萄を食った時にゃ、お歯黒みたいに歯が真っ黒に成ったなー。こんな食生活で俺は鳥目になっ

てしまった。早速
、俺は医者へ、とは言っても強制収容所のロスケ医者は皆女医で階級は中尉なんだ。 俺

は身振り手振りで「夜、目が見えない」と言うと肝油をくれた。あれは、やっぱりきくなー2〜3日すると

見える様になった。

 そして服はボロボロになって来た。床屋は軍隊に床屋出身の奴がいたから刈ってもらい髭は軍隊の剃刀を

使って剃った。風呂は炭坑には薄汚いシャワーの設備が在ったが炭坑から外の労働に回されれば使えない。

仕方無くロスケからドラム缶を貰って
五衛門風呂に入った。 スーチャン川と言う川も在ったから水浴びを

しようと思った。真夏の事だ。しかしシベリアの奥地から流れて来る水は1分と足を漬けていられなかった

。まして冬になれば、なおさらの事だ。沿海地方Primrskijで内陸に比べ、未だ暖かい地方である

筈の、この地だが、しかし日本の旭川、釧路と同じ北緯に在るこの地の冬は、やはり厳しかった。

だが不思議な事に雪は降らない。1度だけ雪を見た。しかし20センチばかり積もっただけだった。でも寒

い、そして何より風が冷たいのだ。真冬に俺は水を飯盒
に汲んだ。50メートルぐらい外を歩くと飯盒の水

の表面は、もう凍っていた。東京では、こんな厳しい寒さは無かった。まして俺達の服はボロ
ボロだったか

ら寒さは一層こたえた。 ここで死ぬかも知れないと思った。死ぬ事は怖くなかった。しかし正直、日本

を見て死にたかった。

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