哀れなる魂  破の段 第3部 シベリア人

 薫の父にも会いたかった。会って薫が亡くなった事を、勿論、真実は言わないけれど伝えたかった。中国

で死ぬのは仕方が無いと思ったが、こんなソビエトで死にたくないと思った。

 俺はそんな時、薫の髪を見た。彼女も遠い支那で死ななければならなかった。俺も嫌でもソビエトの土に

なるかもしれないと思い悲しくなった。

 誰が一体俺達の青春をこんなにしたのだろう?俺は考えた。瀬古にも会いたい智恵子にも会いたい。もし

戦争が無かったら俺と瀬古は間違いなく帝国大学へ行っていた筈だ。薫だって、まさか支那大陸で死ななか

ったろう。

 しかし俺は、あの時、薫をひっぱたいても、あんな生活を止めさせるべきだった。俺が進省堂を止めさせ

られて薫と再開した時、俺はそうすべきだった。戦争は遂に薫を支那の地で滅ぼしたが半分は自分にも責任

が有る様な気がして辛かった。

 しかし薫1人が、もし幸せになったとしても………。あの戦争で慰安婦になった女性達の事を俺は考えた

。薫はその1人に過ぎない薫は俺に慰安婦の生活の残酷さ戦争の別の面の惨たらしさを目の当たりに教えた

。戦争は薫に代表される多くの女達をずたずたに踏み躙ったのだ。

 そして俺はシベリア流刑だ。若い時に弾いたショパンの作品25第6番、練習曲嬰ト短調、シベリア人

と呼ばれるこの曲の低音の旋律の様に暗く重苦しい毎日が続いている。

 俺はシベリア人となった時、昔この地に流刑になった人々の苦しみが分かった。まして彼等が流刑になっ

たのは、更に厳しい寒さの奥地へ
だろう。日本兵はその奥地にも流されたと聞く。俺は未だ幸運なシベリア

人だった。

 このシベリアで生きるためには、まともに仕事なんかしない、或る時には馬鈴薯を南京袋ごと、かっぱら

って食ったし中には牛一頭ぶっ殺して食ってた奴がいた。

 人は言うかもしれない。酷い事だ。また笑うかもしれない。情けが無い事だ。俺は言いたい。笑うなかれ

、悪い事をしなければ日本の土を踏めなかったのだ、と。

 そしてロスケは俺達がちょっと口答すると、丁度、英国のチャーチルがVサインを出す様に右手と左手で

Vサインを作ってそれを俺達の目の前で重ねる。すると右手と左手のVサインは重なって両方の指は漢字の

井の字の様になる。そして言う。「ホラッシュラボータ!」どうも意味は「牢獄行きだぞ!」と言っている

らしかった。心の中で何、言ってやがんでえと思った。

 そんな暮らしの中で木の伐採は辛かった。2人で大きな鋸を弾いて1日数本のノルマをこなす。しかし製

材所は楽だった。ソビエトの製材所でさぼりたく成ると電気鋸で木材を切る仕事をしていた時、一斉に声を

合わせて「セッセイノーセー」何て言って思い切り木材を押すんだ。すると電気鋸のモーターがウーンなん

て唸って止まってしまう。ヒューズか何かが飛んでしまったのだろう。すると少しの間、休めるのだった。

 そんな事ばかりをしていたので俺は遂に、またカンガウスと言う所のコルホーズへ回された。しかし、こ

この方が楽だった。カンガウスでは地中から鉄道のレールが立っていて、その鉄柱は一メートル程あったろ

うか、その鉄柱を毎朝、金槌で叩いて朝の仕事の合図にするのだ。 ところでロスケが俺達日本人捕虜を何

て呼ぶと思う?何と「同志」と呼ぶんだ。ボリショイナァチャニックでもそうだ。日本人ならとてもこうは

行かない。ソビエトでは捕虜に対する意識は日本人よりも上の所が有る。

 さらにソビエトでは捕虜に対する女性の意識までが違っていた。或る時、俺が川を渡ろうとした時、日本

人が慣れないで転ぶと危ないと感じたのかソビエトの若い女が捕虜である俺の手を引いて来れたのだ。日本

人だったら恐らく絶対こんな事はすまい。 そして捕虜である俺達の行動は比較的自由だった。

そんな時、俺はソビエトの老人と知り合いになり老人の家に遊びに行った。捕虜がだよ日本では考えられな

い事だ。 老人は俺に白い酸っぱい食べ物をたらふく食べさせてくれた。今、思えばあれはヨーグルトだっ

た。そして海軍士官の息子の上着を俺にくれた。ソビエ
トは貧しかった。日本軍から取り上げた日の丸を女

性がネッカチーフにしている国だ。そんな国でも、この老人の様に親切な人も居たのだった。

 この老人の様に食べ物を自分からくれる人もいたが、俺は煙草はボリショイナチャニックに手を出して「

煙草」と手を出して催促すると。ボリショイナチャニックは渋々パピロスと言うソビエトでは高級な煙草を

くれた。そう言えばトルストイの復活の中で貴婦人がパピロスを吸う場面があった。ロシアの貴族生活を描

いた場面で実際に見たのはこれ一つかと思った。

 こんな具合だからロシア料理など考えられなかった。この流刑の地では、でかいキュウリのまずい酢漬、

これまた

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