哀れなる魂  破の段 第3部 シベリア人

聖人孔子が生まれた所だ。

 孔子は鄭や衛国の楽を俗楽と言って排した。魯は周の武王の弟、周公旦の血統の国で周の文化が残ってい

ると言われる。論語にも
吾、衛より後、楽正しく……)とか(鄭聲は淫らに)とか(鄭聲の雅楽

を乱すを憎む
)と書いてあり中国古来の雅楽を守る意志を表している。事実、曲阜や各地の孔子廟には古来

の雅楽が残っていると
聞いた俺は自分でも龍笛、笙、篳篥など吹いて遊んでいたので是非、曲阜の孔子廟に

行って中国の古来の雅楽を聞いて見たかった。

 そんな物見遊山の願いが戦争の時に叶う筈も無いが俺が言いたいのは眼と鼻の先に、そんな素晴らしい文

化が中国には有ったと言う事だ。

 私が話を聞いた■■が抑留された土地ソビエト(旧ロシア)のスーチャンの地図は下のリンクをクリックすると御覧頂けます。嘘ではなかったのです。
厚生労働省:〜ソ連邦及びモンゴル抑留死亡者名簿〜抑留死亡者名簿の閲覧ができます:プリモルスク地方2(パルチザンスク旧スーチャン)と書いてあります。

 しかし、ここソビエトのスーチャンはどうか。先にも話したがソビエトの芸術は日本に居た時から知って

いたが、ここにはおよそそんな芸術的雰囲気は丸で無かった。ただソビエトの女性が労働の帰りに数人が集

まってロシア語の歌を合唱している時に異国情緒を憶えるぐらいであった。

 ところで繰り返しになるが済南には城閣、城門、道教の寺院とか美しい公園も有った。色彩豊かな家々、

美しい碑文、山紫水明
、見こそしなかったが孔子廟とそれを背景とした文化が中国には有る。それに比べ、ここは中

国とはえらい違いだった。

 そんな所で俺達は捕虜になり強制労働をさせられる事になった。着物は何もくれなかった。スーチャンに

は全部で500名ぐらい連れて行かれた。1つの舎には10名程分けられる。住居は掘っ立て小屋の様な所

で10名ぐらいが寝泊まりする。ここスーチャンは炭坑町で寒いシベリアでも石炭が豊富で、それが何より

も救いだった。

 そしてソビエト側の収容所長と日本側の収容所長が決まり段取りは出来た。もうだいたい分かっただろう

が、結局、俺達は炭坑で働かされる事になった。ロスケの女が
発破をかけて俺達がモロトフと言う名の削岩

機を使って特別にマスクなど着けないから眼の周りがアイシャドウ
を塗った様になった。

 モロトフと言う削岩機は圧搾空気の削岩機で普通の日本人には重かった。ところがロスケの炭坑夫は片手

で、それを使っていやがった。俺もモロトフぐらい片手で持てたが馬鹿馬鹿しいので両手でだらけてやって

いた。岩の部分と石炭の部分が有り、それをモロトフで砕く労働だ。

 こんな労働を腹に据え兼ねていた俺は日本語でロスケに理解され無い事は分かっていたが食って掛かった

。「日ソ不可侵条約は破るは我々の労働は搾取するはソビエトは騙し討ちにした国の兵士の労働を搾取する

のかよ。そんな事はマルクスの資本論には一行も書いて無いぜ労働の搾取は有産階級
がやる事だ。

共産党は俺達、無産階級からも労働を搾取するのかよ共産主義てえのは、そう言う薄汚い思想なのかよ犬め

!」俺はこんな言葉を怒鳴り散らした。ロスケ
は俺の剣幕に閉口した。

 俺は直ぐ別の仕事に回された。うるさい奴だと思ったに違い無かった。今度は抗内から上がって来る石炭

と岩石を選別する仕事だった。トロッコが上がって来ると石炭が入っているトロッコは右に、岩石が入って

いるトロッコは左に行く。その岩石のトロッコを押して行って岩石を捨てたりする、つまんねえ退屈な仕事

だった。でもこの仕事の方が良い、理由は健康の事だった。

 炭坑生活では食べ物は黒パンで両手に一杯貰えた。しかし炭坑生活は辛い。先に話したが掘り終わると眼

の下はアイシャドウを塗った様になり鼻からは真っ黒な鼻汁が、幾らかんでも出た。こんな事を本気でやっ

ていたら、幾ら両手に一杯のパンを枕に昼寝をしていたところで体は変になるのは明らかだった。だから選

別の方が食い物は悪くなるが、この仕事の方が良かった。

 食事の事だがソビエト人自身、大層食事は貧しかった。俺達も彼等と一緒に働くので、それは分かった。

まして便所の紙さへ無い所だ。ところで親父は
俺の事を心配して俺の軍服の襟に分からない様に十円札を五

枚、縫い着けた。しかしシベリアでは金は役に立たなくなっていた。ここへ来てなにしろ便所
紙も無い所だ

から便所紙の変わりに10円札を使ってしまった。俺ぐらいだろう10円札を便所紙に使ったのは。

 そして便所と言えば土を深く掘って、その上に板が有る、そこに穴が有る便所で、底が見えないくらい深

く穴を掘る。冬になると糞が凍って山の様になる。それを長い鉄の棒で砕いて糞をするんだ。

 この様にソビエトは便所の紙さえ無い。どんなに貧しいか分かるだろう。そしてソビエトは米国から多く

の援助を受けていた。その例は、例えば
の缶詰などには必ず合衆国の星条旗の天然色のマークが印刷され

て有った。ところでソビエト人は馬鹿な所が有った様に俺は思う。 俺は炭坑で働いていた時に、そこのボ

イラーにローマ字で石川島播磨重工と書いて有ったので、ようよう話せる

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