ずいた。そして俺の手を握ると「抱いて」と小さく言った。俺はそっと寝床から起こした。
「待っていたの貴方に会って死にたかった」「何を言うんだ。お前のために卵や肉や菓子を持って来た。
これを食べて元気になるんだ」俺はもう、それらが無駄な事は分かっていたがそう言った。
「有り難う、でももうお別れ」薫は、そう言うと直ぐこの前の柳仰李を指した。「済まないそれを取ってく
れ」俺は朝鮮人女性に頼んだ。「薫、何か在るのか?」「その風呂敷包みを開けて」言われるままに、それ
を開けると美しい藤の花の和服の晴れ着があった。「着せて」薫の言う通り袖を通してやった。袖を通し終
わると昔、俺が上げた銘香■■の■■を取ってと言うので、それを渡すと、それを寝間着の胸元にしまった
。
薫は「あの行李の中に広島に居る、お父さんの住所が書いてありますお父さんとお母さんに薫は死んだと
伝えて」と言った。そして弱く苦しい息の中で「私、綺麗」と美しいが、もう線香花火が最後の煌めきを見
せる様な光の眼を俺に向けた。
その顔は白く長く伸びた髪は清く優しく耳を撫で、後れ毛が美しかった。衰弱した表情は不思議な艶美を
たたえ柔らかい肉感が俺の腕の中で残り僅かな生を保っていた。俺の涙は薫の頬に滴となって伝わった。そ
して俺は言った。「世界のどの女より綺麗だ」と。
薫は言った。「生まれ変わったら……」「生まれ変わったらどうする?」と優しく俺が聞き返すと。「春
の妖精になります。そして、貴方の体を春のそよ風となって私の名前の通り甘い清い風の薫となって貴方の
そばに参ります。
貴方の前に春の妖精となって美しい紫の晴れ着を着て貴方の花嫁になります。貴方は死なないで生きて幸せ
になって下さい」「待つよ何時までも何時までも」そして薫は最後の力を振り絞って俺の体にすがり着いた
。
薫は、あの気品の高い香木が香りが尽きてなを余情を残して遠く聞こえなくなって行く様に美しくなくな
ってしまった。俺の心の中で、あの集古館で見た気品ある普賢菩薩と伽羅の香りと薫の姿が重なった。
お前は普賢菩薩だったのかも知れない。気高く苦しみの無い世界から俺の様に馬鹿で霊と肉の葛藤に苦し
む男のために現れたあのの女の生まれ変わりだったのだ。伽羅の佳人よ俺はどんな貴婦人よりもお前を愛す
る。
だが俺はまた失ってしまったのだった。もう失う物は何も無いと思っていた俺の初恋、青春の思い出まで
もまたも戦争に踏み躙られたのだった。俺は薫の髪を形見にし伽羅の■■の■■を薫と一緒に葬ったのだっ
た。……老人は暫く絶句して泣いていた。私は気の毒になり黙っていると。老人は「好きな女の子は居るか
?」と私に聞いた。「いいえ」「もし、そんな女の子が居たら大切にしてあげてくれ俺と同じ後悔をしない
でくれ」と言った。
そして、また戦時中の話を始めた。中隊に帰ると大塚少尉は山東作戦の事を俺に話した。昭和19年8月
25日に始まるとの話だった。「今度の作戦は苦しくなるかもしれない、しかし別に無理して、お前が参
加しなくても良いんだ」と大塚少尉は言った。「少尉殿、是非自分に行かせて下さい苦しげれば苦しい程、
自分にはやり甲斐があります」俺は死ぬ場所を見付けたかった。
遂に第59師団独立歩兵第45大隊は東に向かって移動を開始した。多くの兵馬が東に向かう。そう兵
馬で思い出した。お馬ちゃんは軍隊で大切にされた。上官の中には俺達にこう言う奴がいた。「馬は大切に
しろ軍馬は大きな軍費が掛かるお前達兵隊は1銭5厘だと。1枚の招集令状で戦死者の後釜は居る」と。ど
うせ俺達は1銭5厘だよ何言ってやがんでえ、ふざけやがって。俺は心の中で叫んでいた。そしてこう言い
たかった。あんた達は女性が子供を産むのを見た事があるか?見た事が無かったら見てこい!女がどんな思
いで子を産むか命がどんな大切な物かが1銭5厘の命じゃない事が分かるだろう。
軍国の母が息子が戦士しても涙をこぼしちゃいけないだって「ふざけるな!」そう言いたかった。
ところで俺は僅かの間に一生を生きた気がした。八路軍に包囲され死地の中を九死に一生を得た事も有っ
た。多くの初年兵が倒れるのを見た。その激戦の時、一瞬の間に一生が凝縮した様な気さえした。航空隊の
新兵を荼毘に付した事、捕虜の殺害、薫の死、体はともかく心はずたずただった。今度こそ真っ先駆けて死
地へ。 しかし不思議な事に死のうとすると逆に死ねない物だよ人間て奴は、それに幾多の危機にも関わら
ず八路軍は狡猾だった。日本軍が危機になって日本の援軍が来て日本が逆転したり、日本軍の大部隊を見る
と僅かに戦火を交えるだけで決して戦闘をせず逃げた。
この作戦は大塚少尉の言うように辛かった。少尉は初年兵教育で作戦には参加しなかった。俺は1人で死
ぬつもりだった。この作戦は辛いと言ったが理由は食料だった。現地調達、つまり中国の村々から食料を集
める。この作戦は食料の不足を伴っていた。しかし山東省作戦も終わりに近付いていた。
昭和19年9月。俺達の中隊は全く八路軍の出てきそうにも無い谷間に、何と斥候も出さずに行軍を開始し
ていた。
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