第1章 武士の和歌
もののふのうた
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。唯、春の夜の夢のごとし。たけき


者も遂
にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」。


 平家物語の冒頭の詩的な文の様にはかない物の代名詞の様な物だと考えられています。 姿形も無い幻の様な物と言えば音楽も姿形の無い幻の


様な物かもしれません、その音楽を主題にした映画である未完成交響曲の一場面をきっかけとし幻の様な香りの世界を考えてみたいと思います。


 物語で無名のシューベルトは貴族のサロンで自作を演奏出来ると言う幸運を得た。貧しい彼は知人の質屋から燕尾服を借り演奏会に臨んだ。だ


が、この燕尾服、質札が付いたままで質札が大理石の彫刻にひっ掛かり大理石の彫刻は倒れ粉々に砕けた。


 だが緊張したシューベルトは気付かない、執事が気付き、主人の女性に目配せで合図する。すると主人の女性は「ほっときなさい」と言わんばかりの


表情を見せた。
全く余裕のある態度です。思うに芸述とは余裕ある態度が必要なのでしょうかその事を詩を例にとり考えてみましょう。


  詩は和歌に限らず、漢詩、俳句、現代詩、など国籍や時を越え色々な種類が有るが先に日本で一番有名な詩的な文と思われる平家物語冒頭り


文を紹介しました。では日本で二番めに有名な詩または詩的文章は?との質問に多くの人は何と答えるだろうか?



 芭蕉の俳句、人磨呂の和歌、それとも歌聖の定家の和歌だろうか?残念だが、たぶん日本で二番めに有名な詩に限って言えば次に紹介する上田敏の


翻訳詩集海潮音に納められるこの詩、それは和歌では無い、翻訳物だから作は勿論日本人でもないこの詩だと思います。 「山のあなたの空遠く『幸い』


住むと人のいふ、嗚呼、われひとゝ尋めゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ。山のあなたに、なほ遠く『幸い』住むと人のいふ」。


 詩は敍上の様に色々な形の詩が有り国を、人種を、時を越えて存在し何時とは無しに口に上る物であるがその証拠を上に示しました。



 香りが重んじる詩は先に紹介した様な翻訳詩や漢詩、俳句などでも良いとは思うのだが、ここで、この遊戯が重んずる和歌の心を紹介し次に、この遊戯


か重んずる物を説明した方が簡単だと思います。まず和歌の心を紀貫之の古今和歌集仮名序を引用して紹介すると


 「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉ぞなりける。世の中にある人、ことわざ繁
きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言い


出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。 力をも入れずして天地を動かし、目には見えぬ鬼神


をもあはれと思はせ、男女の中を和もらげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり」と和歌の心を述べています。


この仮名序の鬼神「をもあはれと思はせ、…猛き武士の心をも慰むるは歌なり」との言葉は信じられない様な気もする。けれど必ずしもこの事は嘘とも言い


切れない。 その事を千載和歌集と言う和歌集に納められている二人の武将の和歌と、その故事に現れる一人の武将、合計三人の武将を例に考えて見


ます。


 千載和歌集の選者は藤原俊成で彼の生きた時代は平安時代末の源平騒乱の時であった。その騒乱の最中に詠歌一首でも勅撰集にとどめたいと思い


西海に落ち延びて行く際それを頼むためにわざわざ引き返してきたと藤原俊成を尋ねる武将があった。

 
武将は後に千載和歌集春歌上巻に「読人知らず」「故郷花といえる心を詠み侍りける」との詞書きで。「さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山


ざくらかな」の和歌が選ばれる藤原俊成の弟子の平忠度だと言う。その様な忠度の文学と風雅を愛する姿を目の当たりにした俊成卿は大層感激したので


した。


 そして平忠度と俊成卿にも別れがやって来る。その時の薩摩守忠度の様子を平家物語ははこう記述しています。


 「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世
に思ひおく事候はず、さらば暇申して」とて、馬にうち乗り甲の緒をしめ、西をさ


いてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥かに見おくッてたたれたれば、忠度の声とおぼしくて、[前途程遠し、思いを雁山の夕べの雲に馳す」とたからかに口


ずさみ給へば、俊成卿いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさえてぞ入り給ふ。と


 これで千載和歌集に納められている和歌を歌った歌人である。二人の武将の内の一人の紹介は終わりました。ではもう一人の故事を紹介しましょう。


 歌は千載和歌集春歌下巻に「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花のちりければよめる」源義家朝臣「吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山


ざくらかな」と歌った源義家です。


 義家は前九年の合戦の時、衣川柵が落る時、逃げる安部貞任を追い詰めた。義家は矢を敗走する貞任に向けてこう和歌の下句で呼び掛けました。 [


衣の盾はほころびにけり」それに対して貞任は「年をへし糸の乱れの苦しさに」と和歌の上の句で応答しました。 「年をへし糸の乱れの苦しさに衣の盾は


ほころびにけり」 との和歌が出来て義家は貞任の歌心に感心し矢を引く事を止めて逃がしたと言う事です。


 この三人の武将、平忠度、源義家、安部貞任らの心の在り方と先程の未完成交響曲と言う映画の物語の共通性はもう気付く事でしょうが心の余裕を感


じずにはいられない事でしょう。


 先のシューベルトの映画の話は平和の最中です。しかし、三人の武将の置かれた立場は戦乱の最中、貞任は自分を矢で狙う義家を背に受けて、義家


は敵の総大将を射程内にしながら、忠度は一門の浮沈がかかっている最中にです。


ところで話題を変えて色々な人に「あなたの職業は一体何でしょうか?」との質問に人は何と答えるでしょうか?



 或る人は「公務員です」或る人は「会社員です」とかの答えが返ってくる事でしょう。では今の世にはもうその職業は無くなってしまった武士に「あなたの


職業は一体何でしょうか?」との質問には武士はなんと答えるでしょうか?


最も適切な答えは悪く言えば人殺しだろうと思います。少し格好を付けた言い方をすれば修羅道に生きる人だと思います。


武士、この修羅道に生きる武装化した農民の置かれた状況は厳しい物だったに違いない。しかし、その極限状態の野蛮な修羅の中だからこそ心の香気を


、なをも彼等は和歌と言う芸術の中に保とうとしたのではないのでしょうか。


 これこそが和歌の世界が求めようとする世界の第一歩なのです。芸術の中に心の風格を保とうとするならばなにも和歌では無く舞楽でも雅楽でもよさそ


うな物です。事実、源義家の弟、新羅三郎義光は笙の名手だったし義家は出陣の時に陪廬と言う舞楽を奏し舞わせたと言うし平敦盛は笛の名手でした。


 けれど短い和歌は出来不出来などを気にしなければ容易に誰でも思い付く事が出来る物です。その容易さに心の風格や余裕を託したのです。


 修羅道に生きる武士の置かれた厳しい状況はもう戦いは無くなってしまった今。容易さに心の風雅や余裕を生み出す和歌の心は、芸術の心などはこの


平和裏に必要は無いのかもしれないと思われる方も居るでしょう。でも戦いは、修羅は、地獄は、この平和の世界に本当に無くなってしまったのでしょうか


?そうではありますまい、ちょっと眼を開いてしっかり世の中を見つめるならば満員電車、交通戦争、難病、受験地獄、家庭争議、失恋、…多くの衆生は皆


本願を適えて仏になったと言う阿弥陀如来の救済の対象に他なら無いのではないのでしょうか?


 そう戦いは今も昔もたいして変わらない身近な所に、ころがっているのです。その戦いの中で当然今でも人生において敗北を味わう人も出てくる事でし


ょう。


 しかし和歌の心、引いては詩の心、芸術の心は、その敗北者も優しく包み込もうとするのでは無いのでしょうか『忠度の声とおぼしくて、[前途程遠し、思


いを雁山の夕べの雲に馳す」とたからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさえてぞ入り給ふ。との記述。「年をへし糸の乱れの


苦しさに衣の盾はほころびにけり」との和歌が出来て義家は貞任の歌心に感心し矢を引く事を止めて逃がしたと言うとの記述。


 和歌にはかかわりは無いかもしれないが敦盛が逃げてしまえば良いものを引き返した心。それをを逃がそうとした熊谷直実の心。平家物語の作者が何


故勝者である源氏を贔屓せず敗者である平家を贔屓するのか?それは勝敗を越えた心の高貴や心の風格や余裕を贔屓したのでは無いでしょうか。とこ


ろで人生にはただ勝者のみが必要であって敗者は必要でないと言う人もいるかもしれません。


また、和歌は弱々しく勝者にこの様な物は必要でなく敗者のみ必要と言う人も有るかもしれません。


 でも、例えば言葉を有能に表現出来る事は結構な様に思うけれど人はまず秘密を守れる事、無口が人格の基本、信用の第一歩と言う事を考えると自分


の所属している家庭、会社軍隊、国家の秘密を守れずにそれらの物に多大な損害を与える人間を信じてはならないことは周知の事実です。それと同様に


余裕、優しさを持てない人間に指導者としての資質は無いとは思わないでしょうか。



 人生にはただ勝者のみが必要であって敗者は必要でないと言う人の論拠は敗者と勝者、賢者と愚者の差を知っていて。その差は先に紹介した「八幡太


郎と与太郎の差」と言われぐらい雲泥の差であるからだと言う物です。


 敗者、愚者は惨めで、勝者、賢者は名誉であると単純に考えがちです。だが、必ずしも敗者が与太郎、勝者が八幡太郎とは人々は必ずしも思ってはい


ない事も事実の様です。


 それは敗者が与太郎、勝者が八幡太郎と決め付けるのならば何故能楽の修羅物では主人公が勝者よりも敗者が逆に多いか。何故敗者である源義経を


人々は愛し判官贔屓との言葉まで生まれたのでしょうか。その事実が人々が単に必ずしも敗者が与太郎、勝者が八幡太郎とは思ってはいない証拠を示し


ているとは言えないでしょうか。


 勝者と言えば人々は大層強い人を知っている。腕力、知恵も抜群であり、情け容赦も知らない、その名は暴力団と言う。の職業は修羅道に生きる人だろ


う。そして暴力団も武力と闘争がその生業かもしれない。戦いと言った所で満員電車、交通戦争、難病、受験地獄、家庭争議、失恋、言う一般の人々の真


面目で前向きな修羅、地獄とは縁のない人々です。そして彼等は大抵は弱々しい和歌などは全く無関係です。その挨拶は「てめえ生国と発します所は…」


で常套句は「オウ、オウ、オウ、オウ!、我!、てめえ!どっいたろうか!ぶっ殺してやる!」とか「覚えてやがれ!」です。 人生は勝者のみが必要で敗


者は不要と言う人、田だ、田だ、「労働のみが大切田だぁ」と言い「詩を作るより田ぁを作れ」とばかり怒鳴っている人「さあ言って下さい!」武士か暴力団


かの二者択一を。詩心に代表される心の余裕の反対の洪水の様に溢れる度を越した支配欲か!度を越した金の欲か!度を越した女の欲か! 香りが目


指す世界は芳香に遊び、和歌の芸術の中に心の余裕、風格を発見し自己に打ち勝つ精神力を養う事です。その事の反対を選ぶのですかと。戦争論で勝


利を追及したクラウゼビッでさえも破れはしたが王者の誇りを敗れても失わないナポレオンの軍隊を愛する様になったとさえ言うのに。


 また或る時、宮本武蔵は柳生石州斎と戦える僥倖に出会った。武蔵は問う「老師の剣は?」石州斎「では逆に問う武蔵殿あなたの剣は?」武蔵「電光石


火!」武蔵は重ねて問う「老師の剣は?」石州斎は笑みを含みこう答えた「春風…さあ武蔵殿どこからでも打って繰るが良い」しかし、武蔵は隙だらけの石


州斎を打てなかった。 宮本武蔵には美しい和歌を捧げてもそれに余りある品格を見破る心眼ある。では暴力団にはどういう詩が最も相応しいかと言うと


円歌師匠が「山のあなた」の詩をおちょくった次の詩だ。
 
 
「嫌〜」「嫌ならよせよ」「イヤー、山、山、山のあな、あな、あな、あな、あなた。あなた、もう寝ましょうよ」そして彼等暴力団は永遠に寝てしまえば良いの


です。 そして、永遠に寝てしまえば、その暴力団の屍には入れ墨が残る。先に紹介した忠度の亡骸にむすび付けられた文には
「旅宿花」と言う題で「ゆ


きくれて
木のしたかげをやどとせば花やこよひの主らまし忠度」との和歌が残る。 敦盛の亡骸には錦の袋に包まれた小枝と言う笛が残った。勝利は人生


の最も大事な目標であり万人が望む物ですが百万人に一人ぐらいは例え敗者になっても「嫌〜」「嫌ならよせよ」「イヤー、山、山、山のあな、あな、あな、


あな、あなた。あなた、もう寝ましょうよ」そして永遠に寝てしまって屍には入れ墨が残るよりも、美しい香気に満ちた人生の敗者としての終焉を望む愚か


者が居ると言うのが和歌の主張なのです。 そしてその主張は実は日本の和歌のみに限りません、時代を越え国を越え今は身分の上下は余りないけれ


ど貴賤、職業を越え、その心は有ると言えない事はないと思います。


 そう、それは何も吟遊詩人や歌人の専売特許ではありません、基督はまるで詩人の様であり。また中国古代の聖天子こう歌ったと言います。  五弦の


琴を彈じ南風の詩を歌い而して天下治まる詩に曰く「南風の薫ぜる,以って我が民の慍を解べし。南風の時なる,以て吾が民の財を
阜す可し、」すると「景


星出
で卿雲興る。百工相和してて歌って曰く「卿雲爛たり。糺縵縵たり日月光華あり旦復た旦」と。 また、この様な故事が伝わる中国には詩を貴ぶお国


柄なのか孔子が「詩三百編思い邪無し」と評した詩経と言う詩の経典までも有ります。紀貫之の古今和歌集仮名序はこの詩経の影響を受けましたがそれ


は詩の心の普遍性を学びとろうとする証拠です。


 短い和歌と言う芸術が心に浮かび上がらせる風格や余裕、和歌を学んだ人が得た雰囲気など、それらを重ね合わせて鑑賞する事。それは世界に残る


多く詩にも普遍的に有る目的であり、それを心の眼で捕らえる力を養おうとするのが日本の和歌だ思うのです。だが、今、和歌は難しい芸術と思う人も居


るでしょう、また和歌の美徳を勧めても自身は和歌の事は何一つ知らないのが現実で和歌を知らない人は尚更そう主張する事でしょう。でもその古めかし


さや自身の浅学を恥じる必要は無いと思います。


 何故かと言うと昔、山吹の里に狩に出た武将がにわか雨に会い蓑を貸りようと或る家に入りその事を家の少女に依頼しました。すると少女は無言で山吹


の花一枝を差し出したのです。武将は少女に蓑を貸すよう依頼したのに、まるで別物の山吹の花が来たので武将は不機嫌にその場を立ち去りました。


 後、この一件を聞いた或る人は武将に「花の意味は『後拾遺和歌集』の兼明親王の古歌「七重八重、花は咲けども山吹の、実の(蓑)一つだに、なきぞ


悲しき」の歌に託し「あばらやで蓑一つ無いのは悲しい事です。」との窮状を奥ゆかしく山吹の花と古歌にかけ少女はあなたに伝えたかったのだろう。」と


教えられました。 自身の浅学からその悲しみを察しえなかった事をこの武将、太田道灌は知り大層恥たと言います。武将が最も持たなければならない素


養の一つ咄嗟の時の心の余裕や寛容、それを芸術の中に表現しようとする和歌、その和歌の心、少女の心を察しえなかった事を恥じ太田道灌は和歌の


道に勤しんだと言う事です。この例の様に或る表現から人の心を察する事は現代も必要です。しかしあの名将太田道灌でさえ人の心を察しえなかった事


や浅学を恥じたのですから人は和歌の事は知らなくともその精神性を貴んで和歌が目指す物はに滅んだ事では無く今も生きる事と思いその理想に近付く


努力を怠らない事が何によりも大切だと思うのです。

 
最後にある一文を紹介します。それは紀貫之の古今和歌集仮名序に出て来る言葉「目には見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」と余りにも良く似ています。


「鬼神も感動する」※香の十徳の言葉