法華義疏の書の解説

Ｃ　ご自筆と認めないわけにはゆかない理由

草稿本が必ずしも著者の自筆になるとは限らないことは、いうまでもありますまい、つまり、
著者が口述して他人に筆写させてできた草稿本というものがあり得るからです。ところが、この義疏の
場合を考えてみますのに、まず第１、Ｂに述べたようなそんな手数のかかる削除や修正の余裕は時間的
にみて、口述者である太子と筆記者との間にはとうていあるはずはありますまい。しかし、かりに１歩を
譲って、他人に筆記させた口述を後から太子ご自身ゆっくりと時間をかけて補訂されたとしましょう。
そうすると、その太子の手に成った補訂部分とそうでない部分とでは、当然筆跡がかわらなければ
ならないはずなのに、それは一カ所も認められません。首尾一貫、同一筆跡です。そして、補訂部分

まで太子のさしずによって徹底的に筆記者にやらせたのではないか、という、最後の疑いは、
１字や２字の書きなおしならいざ知らず、あんな複雑極まる補訂が、さしずというようなまどろっこしい
方法でできものではないことを想い至れば、自然に解消することでしょう。こうしていろいろ検討して
みますと、この義疏が太子のご自筆と認められるについて、いちばん有力な理由はＢとＣで、Ａに
あげた種々の記録などは、いはば助太刀の役目を果たしているに過ぎないことがわかると思います。

　我が国の書が、時代々々に応じて、中国の書の影響を受けながら成長発展を遂げてきたことは、
いまさらいうまでもないのですが、その初一歩からそうであったことを物語るのが聖徳太子
（５７４～６２２）のご自筆に成るこの法華義疏です。肉筆としてはわが国現存最古の遺例で、
わが書道の歴史は７世紀の太子にはじまることを同時に教えているともいえましょう。　
さて４巻から成るこの義疏には、どこにも太子のお名前は記されていません。それにもかかわらず、
そのご自筆と認めることは、今日では常識となっているといってもいいようです。それならば
その理由はどこに在るのか、をざっと述べておきます。

Ａ　太子の法華経ご講讃や義疏ご制作という事実についての古記録。

（１）　ご講讃は推古天皇１４年（６０６）に、行われたことが、日本書紀に記されています。

（２）　義疏のご制作については、法王帝説にも見えていますが、
上宮太子伝補闕記によりますと、推古２２年正月８日にご起稿、
翌年４月１５日ご脱敲となっています。聖徳太子伝暦にも同様に記されています。

（３）法隆寺縁起資財帳（天平１９年・７４７）の記録

　　法華経疏３部各４巻
　　維摩経疏３巻
　　勝鬘経１部
　　右上宮聖徳法王御製者

（４）法隆寺東院資財帳（天平宝字5年・７６１）の記録。
　　法華義疏肆巻　正本者、帙1枚着牙、律師法師行信覓求奉納者
（５）古今目録抄の記録。
　　法華4巻疏　御草本在舎利殿　名後疏

（６）原本第１巻表紙の注記。　法華義疏第１　此是　大委国上宮王私集、非海彼本

この注記は、現在では、本文のすぐ前にちょうど内題のような形で継がれていますが、もとは表紙としての外題だったのです。それを、その外題の損傷するのを恐れて、表紙をはがし、継ぎ手を逆にして巻き込めるように、ずっと後になって接合し直したのです。こういうことは別に珍しいことではなく、たとえば、高野切本古今和歌集巻第２０の１巻も同様の１例です。ここに見られる「此是云々」の注記は、この書物が舶来本ではなくて、太子のご著作に成ることをわざわざことわったものです。そして、この本には、前記法隆寺東院資財帳の記載にも見えるように、縦２９㎝、横２６．６㎝の大きさの竹帙が付属していて、それに縦５．９㎝の釣鐘形を長めにした象牙の籖（ふだ）がつけられています。その表には「法華義疏４巻」、背面には「御製」と書かれています。ここにも太子のご著作であることを重ねて明記しています。さきの外題といい、その書風は決して奈良時代を下るものではありません。やや余談にわたりますが、表紙を新たにして外題や注記を書いたのと、竹帙を新調したのとは同時ではなかったでしょうか。それはいつのことか、おそらくは、法隆寺東院資財帳の記す律師行信が「覓求」めて法隆寺に(納め奉」ったその時ではなかったか、と想像されます。この義疏が、当初、法隆寺に保管されていただろうことは、常識的にも考え得られるところでしょう。しかし、東院資財帳のこの記載は、ある時期に寺外に出てしまった事実を物語っています。とすると、寺にそのまま保管の許されない何かの事情があったはずです。その事情こそは、寺が火災にかかっての非常帯出ではなかったのか、もしそうだとしたら、法隆寺の再建論を書籍の上から裏付けるものといえる、と説く研究家もいます。そういう推測の当否はしばらくおくとしても、表紙の注記と牙籖の題字とは、この書物の成立を考える上に、きわめてたいせつな資料ととわねばなりますまい。以上、（２）から（６）までの記録はいずれも奈良時代から平安・鎌倉時代の間に残されたものですが、記述がいかにも簡単でこれだけでは、現存の４巻が、これらの記録の中のものであろうという推測ができるだけで、太子のご自筆という決め手はどこにもありません。そこで、目を現品そのものに転じてみましょう。

次は書風について考えてみます。
一見したところ、第１に感じられるのは、何ともいえない明るくて磊々とした楽しさに加えて、こまやかな情味をたたえていることでしょう。この楽しさ、この情味はいったいどこから来るのでしょうか。それは線が非常に清純で繊細なこと。一字々々のふところが広くて豊かなこと、もう１つたいせつなのは文字にもいわゆる三過折の筆法が見えないこと、などに由来するかと思われます。三過折の筆法とは、俗にトン・スー・トンといわれるそれで、たとえば、横棒１本をひく場合にも、まず起筆に力をこめてトンと打ち込み、それからゆっくり右へスーと筆をひき、終筆にもまた力をこめてトンと押さえてはっきり止めるというやり方です。そんな厳格な筆法ややかましい構造上の関心は少しも持たずに、至極のんきにぼうっと筆を運んでいるのが、この義疏の大きい特色の一つといえるでしょう。この筆法を楷書に使い、金属に刻んだのが推古３１年(６２２)に止利仏師の作ったあの名高い法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘とみていいと思います。義疏の書かれたのは、上宮太子伝補闕記に従えば、前述の年代になりますから、この光背銘とは１０年足らずの違いです。ですから、両方に同じ筆法の見られるのは不思議ではありますまい。
　それでは、中国の筆跡の中で、こういう三過折の筆法が見られない例にどんなものがあるかといいますと、正倉院聖語蔵の隋経の中に、大業６年(６１０)の年号を持った奥書のある賢劫経が見当たります。この奥書の筆法・書風は全く符節を合わせるように義疏に一致します。そこで義疏の書風も、光背銘のそれも、隋の影響によって生まれたと決めていいように一応は考えられますけれど、当時の大陸との交通事情を勘定に入れるとしますと、そう簡単にはゆきそうもありません。第一、当時の仏教そのものが朝鮮経由の六朝式であったことを思い合わせますと、書跡においても、大陸ではもはや一時代も二時代も前の様式になってしまっていたものが、やはり朝鮮を通って、この島国ではこの頃になって行われていたのだ、と考えたほうが穏当のように思われるからです。というのも、義疏や光背銘に共通の賢劫経の書風は、実は、中国では古く４世紀の前半には一般に行われていたのでした。京都・竜谷大学図書館所蔵の李柏の書状というのがあります。李柏という人は、晋書・張駿伝によりますと、前涼子王張駿に仕えて関内候になり、西域長史にも任ぜられた当時のインテリでした。この書状の書かれた年代については、故羽田亨博士の東晋・咸和３～５年(３２８～３０)説と王国維氏の永和元年(３４５)の頃とする説とがあります。ちょうど同時代の王義之の２０代から３０代の年令に当たるわけです。義之といえばその筆跡―といっても真筆ではなく、きわめて精巧な写しですが―としてすこぶる名高い喪乱帖と孔侍中帖とがわが国に残されています。この二帖は、李柏の書状とは比べものにならないほどに、書としての洗練度は高いものには違いありませんが、傾向としては両者全く軌をひとつにするといえるでしょう。ともかく、義之にしても、李柏にしても、今ここに問題としている義疏の筆法が中国では４世紀の前半に一般的のものであったことを実証しています。
　法華義疏のように、ことに波法に隷書的気分を持った中国六朝の書風をなく反映し、しかも多量に残ったということは、日中両国の書道史研究の上にはまたとなく貴いことだといわねばなりますまい。それと同時に、前述のように、義疏あることによって、わが書道史の第一ページが聖徳太子に始まることのわかる点ですこぶる注目に値します。

Ｂ　それが草稿本であること。

４巻ともそれぞれに削字・張紙・継紙をして推敲訂正の痕跡著しいものがあります。第１巻第２紙
１９行目には約３行分の違った紙が貼られて、それに書き継がれています。同巻８紙１２行目の中には
、
１字刀で削って、孔のあいたのを裏から貼紙でふさいであります。第２巻第３紙には、１０行目に２字、
１１行目に２字、１３行目に９字、１７行目に１字というように、同じ紙を貼って書き直されています。
これらはほんの２、３の例です。だいたい、この巻物は１紙の寸法縦２５．１㎝、横約４９㎝の紙を継ぎ、
各巻１３９３．８㎝から１５１５㎝未満の総長を持っています。ところが、ひどい時はその１紙分が半分も
切り取られたり、反対に増したりして筆写の修正が行われていますので、１紙の寸法はきわめて不ぞろい
になってしまっています。こういう現象は草稿本には当然あらわれてしかるべきものでありましょう。