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でも」と言った。

 「でも私達の愛の物語も消えるわ」と女は言った。私は「もし、この星が滅びても銀河の外の星には海がある美しい星があ

る。私達と同じ人間も日本も東京もそして桜もある。そこの人々は、この星の人達の様に戦争もしない言われなき差別もしな

い自分達の享楽や欲望のため小さな動物や花など自然を破壊したり汚したりもしない決して決してしない人々だろう。それは

遠い遠い未来の話だ、私達の愛の物語が神話になってしまう様な、でも私達は語ろう人を愛し自然を愛する人々だけ居るこの

国の中でも、さらに、こよなく桜を愛する人の前に現れて私達の愛の物語」「桜の神話を…………………」

そして私は笛を吹いた。女は静かに序の舞いを舞い始める。その序の舞いはこの世のどの舞いよりも美しかった。舞いが終わ

ると2人は抱き合い口づけをした。 「心中しよう私の妻よ」女は頷いた。そして最後に私は歌った。

「願いつつ春の桜の花の下に、散行く願い今宵かなわん」 女も「あらたまの春の桜の花弁と散り行く今宵、命、絶ゆなん」

と。 

2人の姿は、泡雪の結晶が手の平の温もりで、はかなく絶える様に激しく散る桜の吹雪の中に吸い込まれて行く様に匂いやか

に幽玄に消滅した。2人は永遠なる世界の人となった。

 2人の消滅した姿を雛人形は見ていたがその雛人形も何時の間にか幻の様に去って行った。東京は壊滅した。1999年、

桜月3日、午後7時、永遠に滅ぼす事の出来ない愛を包みこんで。


déjà-vu
既視感(きしかん)は、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることです。私がデジャヴュの街と呼んでいる東京都世田谷区深沢七丁目付近の風景、私は貧民街の出身で今もその日暮らしの貧しい生活と何の教養も無い中でこの小説を書いたのですが或る時、偶然この周辺を訪れて一度も住んだことも無いのに既視感を強く感じてとても気に入りました。この小説のラストシーンはこの街で起こるのだと考えるようにさえ成りました。もし余命幾ばくもなければこの街に戻るまたは結婚でもしたらこの街へ帰ろうかと思っています。
 
    

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