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その心余りて言葉たらず萎める花の色無くして匂い残れるがごとし。
「桜の神話」 「第1部」

 私は1979年の如月(きさらぎ)、東京の山の手に生を受け、その後、都内を転々をとしたが少年期そしてその後もづっと東京に住んだ。如

月といへば冬の真っ只中であるこの冬の寒い荒涼たる誕生月の季節はそのまま自分の人生を暗示するような、そんな旅立ちであった

。ひどく相応しいことのように後で考えると思えるのである。 

父は妹が生まれると直ぐ白血病で亡くなった。父も母も世間並の全く普通の経済力を持つ家に育ったのだが、しかし、その後の時の

流れは私達一家にはいつも冷たかったように感じる。父が死ぬと坂道を転がるように生活は苦しくなり貧困の魔にいつも魅入られた

のであった。一家は母、姉、兄、私、妹の5人で母1人の働きで生計を賄っていたので、その苦労は並ではなかった。家族がその後

、母に寄せる気持ちが並々ではないのは、その大変さを目の当たりに見たせいかもしれない。幼い一時期、私達は桜のとても美しい

街そこに建った住宅も洋風で整然とした街に住んでいたことがある。私達の家は500坪程の庭と、ひどくみずぼらしい家であったが

、その街は美しい街並そして川添に1キロメートル程の美しい桜並木、いや街のいたる所に桜があったのである。

外国の雰囲気の漂うようなこの地、基督教の建築、深く茂った木々と垣根越しに見た泉や聖母の像。また一方では東洋的な雰囲気も

この街にはあった。古い寺院の入り口に佇むと香が聞こえてきた。人気の無い建物の奥にはいつも神秘的な一度、行ったら二度と帰

ることの出来ない佇ずまいの世界をいつも感じ取っていた。私は生まれながらに浪漫主義的感情など少しも持たない男と信じている

。しかし、後に、この頃の事を心に描くと絢爛たる情念のうねりが内に疼くのを禁じ得なかった。ある時それは私には初めての芸術

的体験だった。1人で遊んでいると近所のお姉さんが声を掛けた。「僕、いい所へ行こう」と、子供だたったので何も疑
わず、付い

いくと大きな建物の前に着いて階段を昇って行った。建物の中には、幾らかの人々が集ま
り色々な年齢の大人の人々が居た。お姉さ

んは絵本を見せてくれた。本には今まで全く知らない人々が描いてあった。頭の後ろから光が出ているのだ。人々が集まり歌を歌い

出した。その歌声は建物中に木霊し、生命力に満ち溢れているかのようだった。後で特に夜、寝床であの光景を思い浮かべた。 

あそこは基督教の教会だった、絵のこと音楽、建物の印象は妙に心を天上への思いに、夜、1人で思い出すと

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