原田俊介のページへ

友人に輪廻転生譚の話は詳しくないので紹介してくれと言われたのでそういう人たちのため下記の秋田書店歴史と旅の作家豊島泰邦先生の記事を紹介します。現代では科学が発達してこの様な話に興味のない人が多いでしょうが興味のある方は読んでんださい、尚、赤字の勝五郎の再生譚と珂磧上人の話は有名もしくは子供の時に両親が話をしているのを聞いたので特に有名な話だと思い緑のフォントで記しました。
神秘の世界リンクは(ここクリック)
東洋の占い世界は(ここクリック)
秋田書店 歴史と旅 1994年10月号より
記録された輪廻転生の驚くべき世界前世を記憶している少年、生まれ変わりを証明する文字形の痣など、時空を超えた因果応報の不可思議な世界
作家 豊島泰邦
勝五郎の前世記憶

人間は死後どこへ行くのであろうか。その疑問はいまだに解明されていないが、世の中には死んだにもかかわらず再び蘇生したという事例――いわゆる臨死体験が少なからずある。その状態においては類型化したヴィジョンをかいま見ることが知られている。また、一度死んだ人間が同一の肉体に戻るのではなく、時空を超えて別の人間(ないしは動物)として再生するといった輪廻転生の記録も様の東西を問わず記録されている。

 有名なところでは小泉八雲の『勝五郎の転生』がある。武蔵多摩郡中村谷津入で起こった「転生」事件に関する貴重な記録である。 勝五郎は文化12年(1815)、父・小矢田源蔵、母・せいの次男として同地に生まれた。文政5年(1822)、勝五郎が7歳のときのことである。彼は姉と遊んでいるときに、姉の前世を聞いたという。姉は「生まれる前のことはわかるわけはない」といったが、勝五郎は逆に不思議がり、自ら生まれ変わったことを始めて告白した。しかし、姉は作り話であるとして、まともにうけとろうとはしなかった。その後、勝五郎の転生の話を両親が知るところとなり、父の源蔵が質したところ、勝五郎は次のように話し始めたのである。 それによると、勝五郎の前世は武蔵野国多摩郡の小宮の領内・程窪村の百姓久平(久兵衛)の子として生まれ、名前を藤蔵といったが、5歳のときに父の久平が死に、その代わりに伴四郎が婿として入り、可愛がってくれたという。だが、藤蔵は翌年の文化9年に6歳で疱瘡に罹って死に、それから3年後、源蔵の家に勝五郎として生まれ変わったというのである。父はにわかには信じられなかったが、噂を聞きつけた村の庄屋・多聞伝八郎が調べてお上に報告した。それにより並々ならぬ関心を抱いた大名の松平観山がじかに調査したところ、藤蔵なる人物の歴史的な実在が確認されたばかりでなく、その生涯なども勝五郎ののべたことと一致していたという。 それにしても、勝五郎はどのようにして再生したのであろうか。彼はその状態を覚えていた。死ぬと、自分(藤蔵)の死体がつぼに入れられ、近くの丘に埋葬されるのが見えた。それから再び家に戻り、自分の枕のところにいたが、しばらくすると、祖父らしい老人がやって来て、藤蔵を連れ出し、一緒に虚空を飛ぶようにして突っ走ったという。周囲の明るさは黄昏時のような感じで、また寒くも暑くもなく、空腹感もなかったという。
 老人と一緒に言った場所は、かなり家からは離れたところのように感じたが、奇妙なことに、家族の話し声がかすかではあったが、いつも聞こえていたという。とりわけ、藤蔵のために唱えられた念仏は大きく聞こえ、また仏壇に餅が上げられると、その匂いを嗅ぐことも出来たのであった。 そのように過ごしているうちに、老人は藤蔵を見知らぬ家の前に連れ出していた。「お前は死んでから3年たったので、この家で生まれ変わることになった」そういうと、老人は消えてしまったのである。そこで藤蔵は、その家の戸口の前にある柿の木の下でしばらく佇んでいた。貧乏そうな家だったので、入るのにためらったまま、3日が過ぎた。3日目の夜、雨戸の節穴から家の中に入り、竈のところでとどまっていたが、やっと母の腹の中に入る決心をし、やがて勝五郎として生まれることになったというのである。
 勝五郎は祖母のつやとともに、転生前に住んでいたという程窪村に行くことになった。村に近づくつれて、勝五郎は勝手知った者のようにつやを案内した。つやが藤蔵の家を訪ねると、「ここがそうだよ」と答えた。つやは半信半疑ながらも確かめてみると、まさにその通りだった。さらに勝五郎は、藤蔵在世の頃に比べて変化した家の周囲の景観を的確に指摘したという。
 ちなみに、国学者の平田胤篤も勝五郎に直接面会して『勝五郎再生奇聞』と題した調査書を残しているが、それによれば勝五郎の再生は、冥界を司る大国主命と、その意を受けた産土の神の熊野権現の計らいであると述べている。


人間以外の動物への転生

ともあれ勝五郎の再生譚は輪廻転生の可能性を証拠づけるものであろうが、生まれ変わりは人間だけでなく、動物にもあることを『法華経験記』は伝えている。 近江国金勝寺の僧頼真は、ものいう時の口元が牛そっくりであることを恥じ、比叡山の根本中堂に籠もって前世の果報を知らせて欲しいと祈った。すると、6日目の夜にお告げがあった。「お前の前世は牛であり、飼い主の近江国愛智郡の役人がお前の背中に法華経をつけて寺まで運んだ。その功徳でお前は人間に生まれ変わることが出来たが、前世の習慣がまだ残っているので、口の動かし方が牛のようになる」ということであった。 『古事談』にも、仁海僧正の父が牛に転生した話が記されている。それによれば、父の死後、夢の中で父が牛になったことを知った仁海は、その牛を買い取って大切に飼っていた。ところが、その後、牛に仕事をさせないため父の罪が軽くならないという夢告があり、そのために、仁海はその牛を田舎へ遣わして時々仕事に使った。その牛の死後、父が畜生道を脱したという夢告を得たという。
 いかにも仏教説話的エピソードに見えるかもしれない、だが、仏教とは直接関係のない天理教の教祖・中山みきもまた、人間の命は1回切りではなく、何回も出直すものであると述べている。ミキによれば、人間は死ぬと神の懐に抱かれ、その後出直してくるわけだから、いたずらに死を恐れる必要はないという。
 だが、同時に現世で神の意に沿わない行いをすると、その結果として来世においては牛や馬、さらに鼠などの動物に生まれ変わることもあるといっている。みきはある時、知人が馬に生まれ変わっていることを見抜いて声を掛けたところ、その馬が涙を流したという話も伝わっている。また、動物でも人間を見て羨ましく思うものは、来世には人間になって生まれてくる可能性が高いということも述べている。
 驚くべきことに。コオロギが人間に生まれ変わったという記録もある。越中国海蓮法師は法華経のうち、最後の3品をどうしても暗記できなかった。そこで何故覚えられないのか祈念したところ夢の中に菩薩が現れてこういった。「お前の前世はコオロギだった。僧坊の壁で僧の唱える法華経を聞いていたが残り3品のところでその僧が頭を壁にもたせかけたので、つぶされて死んでしまったのである。そのため、お前は法華経の3品を覚えることはできないのだ」これは法華経がいかに尊い経典かを強調する仏教説話に、輪廻転生を融合させたものといえるが、輪廻転生は仏教の専売特許ではなく、仏教以前のインドのヒンドゥー教の宇宙観の中にすでに存在していた。

異形の再生譚

輪廻転生説はさらにインドのジャナ教や、古代ギリシャのオルフェウス教など、さまざまな宗教に見られる。また現在の境遇や病気の原因が前世にあるとする考え方もある。

 『古事談』によれば、陰陽師の阿倍清明が、花山天皇の前世を占ったという話が収録されている。花山天皇は頭痛持ちで、とりわけ雨の日は激しく痛み、ありとあらゆる医療を尽くしたものの、まったく効果はなかった。
 そこで、清明がめされてその原因を占うことになった。すると花山天皇の前世は行者で大峯山で入滅したが、その髑髏が岩の間に落ちて挟まり、雨が降ると岩が水気を吸ってふくらみ髑髏を圧迫するので痛みが酷くなるということが判明した。清明は、その痛みを解決するにはどんな医療をほどこそうとも無駄で、唯一の解決法は前世の髑髏を岩の間から取り出すほかないとし、その髑髏がある場所も具体的に予言した。さっそく使者を遣わしたところ、清明の予言の通り髑髏が見つかり、それを取り出したところ、さしもの頭痛も快癒したという。
 また、再生に関する日本の俗信として明治のころまで子供が死ぬとその親は、その子の足の裏や掌などの体の一部に名前や文字を書いて埋葬した場合もあった。もしその名前や文字を持った赤ん坊が生まれると、埋葬したところの土で擦れば、その文字はきれいに消えると信じられていたのである。
 実際、次のような記録が伝えられている。岐阜県羽島郡の国島兵助なるもの妻が、明治43年に男子を出産した。その男子の足の裏には「文」という文字の形の痣がくっきりと現れていた。それを知った新聞記者が『岐阜日日新聞』で紹介したところ、富山県西砺波郡福光町在住の佐々木玉枝という婦人が国島宅を訪ねてきたのであった。玉枝には文子という娘がいたが、高等女学校に在学中に病死、両親は娘が再び生まれ変わってほしいと願いつつ、死んだ娘の足の裏に筆で「文」と書き記してから埋葬したという。
 また石川県で多田某という人物が死んだとき、密かにその名前を書いて埋めたところ、程なくして能登半島の輪島の家にその名前が刻印された赤ん坊が生まれ、その家の人が墓の土をもらいにきたという話がある。
 その真偽はともかく、文字や痣などによって転生の印とする習俗があったことが窺われるが、それ以外にも異形の再生譚がある。

 珂磧和尚は延宝6年(1678)に武蔵国奥沢村に浄真寺を造営した。この寺は3仏堂にそれぞれ3体ずつの阿弥陀仏を安置するところから、九品仏と呼ばれたが、その九品仏に金箔で荘厳をすれば、ついに完成というところで、珂磧和尚は急死した。
 その後、会津候の夫人が男子を生んだ。だが、この子は乳を飲もうともせず、両手を硬く握りしめたまま泣いてばかりいる。そこである占い師に占わせると、「屋敷じゅうの人に抱かせると泣き止むであろう」と出た。その言葉にしたがって、次々と抱かせてあやしてみたが、泣き止む気配は全くない。最後に残った粥炊きの老人に抱かせてみると、やっと泣き止んで、握っていた掌を開いた。何とその掌には「珂磧」と書かれた紙が入っていたという。
 ちなみに、この老人は元は珂磧和尚に仕えていたが、和尚が臨終の間際に「仏の造立を果たさずに死ぬのは無念だ。もう一度生まれて事業を完成してから極楽浄土を願うことにする。転生の際はきっとお前に会えるだろう」といい残して死んだ当の相手だった。

死後の世界への科学的アプローチ
なんとも筆舌しがたい再生譚というほかないが、この種の話は、実は日本の古典を繙けば、少なからず散見されるのである。それらは民族的かつ宗教的要素が渾然1体となっている場合が多いため、純然たるデーターのみの抽出とそれにともなう分析作業はきわめて困難でもある。だが、近年にいたって、輪廻転生や臨死体験を科学的なアプローチで研究しようとする動きが西洋を中心に高まっているのも事実である。
 その先駆者がアメリカ・ヴァージニア大学医学精神科のイアン・スティーヴンソン教授で、彼は1960年代から東南アジアで輪廻転生に関するフィールドワークを行い、
『前世を記憶する子供たち』を発表し、各方面の注目を集めた。またレイモント・ムーディもその著『かいまみた死後の世界』で臨死体験者の事例を分析し、臨死状態ておいては次のような共通性が見られることを指摘している。
 それは、で臨死体験者は医師による死の宣告を受けたあと、やがて不快で耳障りな大きな雑音が聞こえ、それにともない、薄暗くて長いトンネルの中をすべり落ちていくような感じになるということである。その後、自分自身が肉体から分離している状態に気づく。それは横たわっている自分の肉体を空中からながめることができるからわかるという。したがって医師が自分の蘇生術を行っている場面や、その周りで嘆き悲しむ親族の姿が見えることもある。とはいえ、意識はひじょうにはっきりしており、平安と歓喜に満たされたような気分になる。そして往々にして以前死んだ肉親や友人などが自分の前に現れたり、あるいは自分の生涯の光景が走馬灯のように脳裏を駆けめぐる。また強い光に包まれることも多いが、そうした状態は生と死の境界であり、自分の肉体に再び戻って蘇生するか、あの世へ行ってしまうかの境目であるという。
 ここで思い出されるのが、チベットに伝わる密教経典『死者の書』である。同書によれば、人間は死ぬと、49日間「中有」
(バルドゥ)にさまようことになるという。「中有」とは、いわば死から再生への中間的存在で、臨死体験者はその「中有」をかいま見たということができよう。普通の人間はこの「中有」で49日間さまよい、その間に自分が死んだことを悟るとともに魂の浄化が行われ、しかるべき霊界へ、すなわち天上界や地獄界や人間界などといわれているところへ行くことになるという。中にはその人の業に応じてづっと「中有」にとどまる人もいる。「中有」では、親族などが霊界の案内役として現れることもある。前述の勝五郎の老人にともなわれ、「中有」さながらの状態に3年間とどまったのち、人間界に再生したわけである。 

 いずれにせよ、人は原則的に死後「中有」へ行き、そこからさらに異次元の霊界へ行き、それぞれの霊界での自分の寿命が尽きると、再び人間界などに転生するという。人間はそのようにして生死を繰り返しながら、霊的進化の道をたどるというのである。現在「前世療法」という催眠を応用した心理療法がトロント大学医学部の教授ジョエル・ホイットン博士などによって行われているが、興味深いのは、そのほとんどがチベットの『死者の書』に記されている臨死体験などとの内容に酷似していることなのである。これは一体どういうことであろうか。結論的には、死後の世界は、人種、宗教、文化、時代などの枠組みの違いを超えてある種の普遍的な共通性をもっているといってもいいのではあるまいか。そして科学的な研究はやっと端緒についたばかりなのである。
戻る