原田俊介のページへ
岩波新書の話や、家族、知り合いから聞いた話を聞いて感じた事は、「心って不思議で深い神秘的な物だな」と言う事です。仏教は人は生まれ変わって善行には来世に生まれ変わったら幸福と教えているようです。それは私には解りません、ただ私は若い時から芸術の道楽が有ってこの道楽、道楽のくせになかなか上手くならないんです。すると私は心の中で何時か「出来ないなあ…」そんな時、悪戯な心が「何故?出来ない振りしてんだよ前世に、絵とか演奏とかやってたじゃない忘れた振り止せよ」とか心で冗談を言い続けているとアラ不思議、出来る様な気になって出来てしまったことが結構有ったんです。そんな思いを詩にしたのが忘却て言う詩なんです。でも人の心には集合的無意識(ユング心理学)なんて言う不思議な世界が有るのでまるでこの詩は嘘ではないのかも、ところで私は霊感と言う物全く有りませんし、自分の前世なんか解りません知る必要も無いと思っています。(有ったとしてもただの凡人だったんだろうと思う)唯一つ信じていることは人間て実は誰でも心の中にとんでもない神秘的な力が有るんじゃないかそれをただ怪談話の面白おかしい世界に興味を持つだけでは終わってはつまんないんじゃないかと私は思います。「それ信じて何が出来るんだよ?」て言われると「せいぜいこんなもんです」て私の作った阿呆な物を見てもらうしかしょうがないなあ(笑ないで下さい。)

最後に心の話になると宗教的なことに触れなければならないけれど(大抵は禁じられているが仕方ない)私には宗教心は有りません私の印象では宗教心とはホニヨホニヨ宗が全てであとのモニョモニヨ教の教えは破壊すれば良いとかの考えって感じです。信仰心は何かは解らないけど世界には神秘的な力な秘密な謎めいた物が有ってそれは尊い物で奇跡的な物でその決まりを直感的に理解し信じて人類愛とか世界平和に繋がれば良いなと思う心だと思うんです。宗教心に生きている人がテロとか自分以外のモニョモニョ宗の憎しみ破壊、否定ばかりと感じる人が多いのに信仰心に生きている人に感謝の思いとか人類愛とか世界平和のため生きている人(ガンジーとかマザーテレサ、聖フランチェスコ、ブッタもそうだと思う)が多いと感じる人が多いと感じるのは多分私だけではないと思います。私は凡人ですから偉い人の真似は出来ませんけどただ神秘的な色々な経験談を悪用して無価値な「御局製の壷」百万円撫ぜると幸せになるとか、本名まつもとちづおの作った宗教団体に騙されてサティアンの下の土になるなんて話には注意したいと思います。私はやはり信仰心に生きたい(合衆国で飛行機をビルディングに突っ込ませた人達を見てそう思いました。)宗派なんて何でも良いです鰯の頭でも拝もうかな。私一応(血脈なになに宗派と言う言葉好きではないのでこういう言葉使うんです。解説見て下さい今時使われない言葉ですみません)は禅宗です。

血脈とは仏教徒ならばその教えは必ず釈迦にたどれるはす。と言う事だと思います。例えば禅宗ならば釈迦→迦葉→阿難→達磨→中国→日本と親弟子、子弟子、孫弟子、ひ孫弟子と続いている心のDNAとでも言いましょうか釈迦から出家した僧侶に教えが伝わりこいつ悟ったて親弟子が認めて教えが伝わっていくことだと思うんです。したがって仏教徒の血脈がなくて俺は何々宗派を起こすことは出来ないんです。有名な昔の坊さんだって最初は比叡山とかで厳しい修行してるんです。変な例えだけれどインフルエンザのウィルス(DNAかRNA)とか思ってください例えば検査でその人の身体にインフルエンザのDNA無いのに「俺インフルエンザだー」て言ったら馬鹿にされるのと同じです。基督教も新教と旧教の違いはあっても正当な教会の信徒ならば多分ジザーズクライストへたどれるのではないかと素人考えでは思う。逆に言えば血脈もないのに基督教系と言うのはおかしいのではそういうの有るのかないのか私は知りませんけど。

神秘の世界
ここからは動画です。東国原知事、中尾彬の体験
柴田理恵の体験        ほんとうにあった怖い話、心霊スポット
神秘の世界―超心理学入門 (1961年) (岩波新書)
戻る
輪廻転生の話へは(ここクリック)
東洋の占い世界へは(ここクリック)
1章、岩波新書神秘の世界から4つの話の紹介
第1例 (父の死)
戦争も終わりに近づいた昭和20年3月10日夜半から未明にかけ、東京の江東区はアメリカ空軍により大空襲を受け、風も強かったのでこれまでになく死亡者も多かったのですが、私の父もその時死亡いたしました。私は慶応義塾大学1年生の時、学士出陣で入隊しそのころは見習士官として山口県柳井にある船舶工兵第3連帯に派遣されておりました。軍務が激しく、夜はぐっすり眠り、夢を見るということも、ほとんどありませんでしたが、3月10日の明け方、突然(と思われます)(夢の中で)、コンクリートかアスファルトの通路のような所に、黒いオーバーに黒い長靴をはいた人が横たわっているので、私は白い綿に水を含ませた物で父の口を濡らしてやると2、3回、顔を横にふって、こときれました。 
  このようなはっきりした夢を見てハッと眼を覚ますと時間は分かりませんがまだ外は真っ暗で起床時間には間があり、嫌な夢を見たなと思いながら、また眠ってしまいました。軍務多忙なため、その夢の事もそれっきり忘れてしまいました。
 それから、しばらくたって在京の弟から連絡があり父が3月10日の空襲以来、行方不明で死亡したものと思われるから、帰郷するように言ってきましたので、特別休暇を受け帰郷しましたが、死体はどうなっているのか全く分かりませんでした。ところが4月末になって、勿論、私は帰隊して東京にはおらず、現実には見たわけではないのですが、父の死体が深川、小名木川の船着場の上に潮の関係でしょうか、なんの外傷もなく打ち上げられてあったのをよその人が発見して知らせてくれました。黒いオーバーを着て黒いゴムの長靴をはいたまま、コンクリートの上に横たわっていたそうです。その知らせを聞きとうとう、本当に死んでしまったのか、という気持ちが起きたのと同時に、私が3月10日あけがた見た夢を改めて思い出しその服装と言い発見された所といい、あまりにもそっくりなので、まことに感無量でした。
 だれ1人見取るものも居ないなかで死んでいった父に、私が夢の中で末期の水を与えたのだと思います。夢で会いに来るなどとは信じられませんが、実際にこのような夢を見たのは単なる偶然とは解釈できません。なおその後復員してから疎開していた母、妹、祖母に聞いてみたところ、誰もその時、その様な夢を見なかったそうです。結局、父としては一番頼りにしていた、または気にかけていた長男の私の所に最後の別れに来たと解釈されるのではないでしょうか。その後父の夢もしばしば見ましたが、それは父が今、いてくれたらという思から見る普通の夢で、前期の不思議な夢とは全く異なる物と思います。

※私の感想ですがその後父の夢もしばしば見ましたが、それは父が今、いてくれたらという思から見るふつうの夢で、前期の不思議な夢とは全く異なる物と思います。との言葉は印象に残りました。これは全く本当のことだと私は思っています。何故なら私も近親者(肉親とか恋人とか誰とは話はしたくありませんが)こういう不思議な夢を見たことがあるからです。
第2例 (兄の死が父の夢に)

昭和32年暮れ、兄は勤務地の東京より、約、半年の予定で熊本方面に出張を命ぜられ、以来、単身、不自由をかこちながら社務にはげんでおりましたが、その間、家族たちにも10日に1度くらいは文通していた様子でした。兄も日頃、身体の方はいたって健康で、先月の便りにも元気でやっているから安心しろ、といって来ておりましたので、私も兄の事など、すっかり忘れておりました。
 ところが、3月29日の朝、父が突然「正夫が昨夜突然帰って来たよ」と心配そうに、話しますので、私達も大いに驚き、なを、詳しく聞きただしました。「昨夜、夢で見たんだが正夫が突然、帰って来てわし(父)の枕元に両手をつき『お父さん、長い間大変お世話様になりました。事情があって突然帰って来ましたが、またすぐ行かなければならない所がありますので、ちょつと挨拶に来ました』と日頃に似ず真剣なをして言うので、わしもおかしいと思ったが、 『まあ、遠いところをせっかく向かえって来たんだだからゆっくり休んで行ったらいいんだろう』と言ったんだがもうその時、正夫の姿は無かった。 わしもその時、目が醒めたが、朝まで夢の事が気になって寝付かれなかった。ひょっとすると、正夫の身に異変があったのではないだろうか、もしかすると昨夜、死んだのかもしれない、ぞ」と案じ顔で話しましたので、私達もあの丈夫な兄がまさかと思い、それは単なる夢にすぎないと父を慰めて置きました。 ところがどうでしょうその日の午後12時すぎ、兄嫁が兄死亡の電報を手に私宅に駆け込んできましたので、私達一同慄然といたしました。そして、改めて今更の様に霊魂の認識を再認識いたしました。後で聞くところによりますと、もともと、頑強だった兄は身体に自身をもちすぎ、しばしば無理な仕事もやっていたようで亡くなる一週間前、うすら寒い小雨の日に雨具も着ず、二時間ばかり貨車荷の検査をやり、その日からカゼをひき、それがもとで急性肺炎をおこし、発病後6日目の3月29日午後10時20分、寂しく息をひきとったそうでおそらく、遠く離れた家族をなつかしみ、また心引かれながら死んだその執念が死亡後わずか4時間ほどで九州の果てより懐かしい東京へ帰って来たものと思われます。

第3例(義姉の死)
終戦直後のことで、社会は大変混乱している頃でありました。そのころ30年代の初めの年齢の男性として、その乱世的生活の波をのりきることに夢をはらんでもっぱら仕事に打ち込み、若い妻は食料の獲得に大わらわの努力をしている時代でありました。私どもの故郷は静岡県西部の海岸にあり物資は豊富な村でありましたので長兄が老母とともに住む実家へは、他の兄弟姉妹たちは入れ替わり立ち代り、食料の入手に出かけているという便りがありましたが私達夫婦は老母の世話を頼んでいるということ、それ以上に世話をかけまいと固く自戒して、一度もその無心に帰省しませんでした。
 それだけに郷里の家の交信も薄かったともいえます。兄嫁(長男の妻)は私(末弟)がまだ小学校の時代に、狐の嫁入りのように提灯行列をして嫁入りして来たので、私はまるで実の弟のように、可愛がられて育ったのです。特に私が中学に通学する頃は、3里余の路を自転車で通うために、毎朝、5年間、ことに冬の寒い朝、海の上の空に重なる層雲が、ようやく白む頃、5時半に起きて仕度をしてくたことは今になっても忘れられません。
 ある冬の明け方、私は姉が何か雲のような物に乗って、私に「死のうと思うがどうしよう」というような意味の事をさかんに私に訴える夢をみたのであります。朝食の時に妻に「田舎の姉さんの夢をみたが何か姉さんが泣いているようだったよ」と何気なく話しました。(中略)
 私は戦前の昭和10年前後、東京で学生生活を送り、当時経済学ではもっとも進歩的であったとされていた大内兵衛先生門下の若い教授グループに、労働価値説のゼミナールを受けた身で、後に軍隊にあっても胸中その自負を持ち続けたくらいであり、科学的な批判精神を持していると思っておりました。 その日、会社に出勤して1時間ほどたったころ、妻から電話がかかり「田舎から電報がきて姉さんが危篤である」ことを告げられました。直ちに帰宅した時、電報が入り、「死んだ」事を知らされました。
 (中略)「ガンの手術をして子宮を取ってしまったのでこれで、心配ない」と医師の確信にみちた報告をうけて家族は安堵したのに、経過が悪く明け方の3時ごろ高熱で危篤状態に陥ったのです。高熱にうなされつつ「自分の2人の子供のことをいわず『大阪のお兄ちゃん』のことばかり言って死んだ」とのことで、私は心に深く感謝の祈念をしつつ、子供のころからともに過ごしたこの姉の憶い出にかられ、追慕の悲しみは果てしなく、慟哭するばかりでありました。
 ……火葬のあと骨あげに参って驚いた事に、骨に混じって手術用の鋏が一丁、白く光っていたことでしたその残存異物のため高熱の中でこの姉ははるか昔を憶い、弟のようになついた私をひたすら思ったことでしょうか。中学を卒業して上京して大学に入る私を田舎の駅に送りつつ、言葉もなく涙に伏したあの姉を今も忘れません (感想、優しくて素敵なお姉さんだなあ)
第4例(コドモ)の死の幻覚)
昭和26年6月27日午後4時頃です。私は仕入れに出た帰り、バスを名古屋駅で降りて歩いていました。突然、私の目の前は一瞬、海となって、なかへ子供(男か女か自分の子かどうかは不明)がぐんぐん入って行きます。私はハッとして立ち止まりましたが、もう目の前は6月の太陽を一杯、受けて、まだ昼間です、賑々しい名古屋駅前でした。しかし、私はこの一瞬を忘れることは出来ません。
 ちょうど、その日は長女(当時、小学校6年生)が学校から2泊3日で海水浴に出かけた日でした。出かけた朝、妻が仏様にお詣りして行くように申しましたのですが、時間が少し遅れていましたので、私はそんなことはいい、早く行け行けと追い出すように家を出してやりました。そのことがはっと気になりひとり念仏を申し、子供が無事でありますよう、念じましたが何ともいえない変な気持ちでございました。
 しかし、私はちょうどそのころ、名古屋のアロハコートに出店、雑貨店を営業しておりましたので、すぐその店にまいり、所要のため店員を自宅営業所に使いを出しまして、ちょっと前にあった変な気持ちを忘れて商いに追われてまいりました。まもなくその店員が自宅(現営業所)についたかと思われるころ、自宅より電話がかかり、長男(9歳8ヶ月)が川泳ぎ
に出かけて帰らないので、自分も今から探しに行くが、すぐ帰ってくれとの電話でした。いっぱいの胸騒ぎをこらえながらかけつて見ますと、店は閉まっており、3男が1人となりの家にいて、となりの人や近所の人もみんな行っていられるが矢田川(約10町離れております)の方だからと自転車を出してくれました。さっそくまいりますと、人だかりの中に人工呼吸をして頂いておりました。
 しかし、結局は助かりませんでした。丁度、私が名古屋駅前でショックをうけ、私の目の前が海になった時には長男の溺れた時刻と一致しております。勿論、長女は何事もございませんでした。
宮城音弥談
「この場合には、コドモに対する心配は、ないわけではなかった。しかし、それは海水浴に行っている長女であった。この心配が、突如幻覚を生じ、偶然この時刻に、長女が溺死したのではないか、という推測もできなくはない。また、この報告者が幻覚をみてからその不幸に直面するまでに、この話を第3者に語っていないから、後になってから「あの時に、あんな物が見えた」という記憶の錯誤(既視感、デジャ・ヴュと称される)を持ったということがない仮設すると、偶然では、とうてい解釈できない。
 昭和25年(1950年)の9歳の男子の死亡率は10万人に対して219.0(これは5歳から9歳までの死亡率で、実際はこれより小さいはずである。10歳から14歳までに114.6だからである)であるから、この時間に(1時間ほどの幅があるとして)少年が死ぬ確立は219/100000×1/365×1/24=0.00000025である
 しかし、正常な人が、目の醒めている時見る幻覚は(昔の統計であるが、最近の物が無いので、これを基礎とする)、1年におよそ千人が2回体験している(実際はこれより少ないであろう)から、1時間のうちには2/1000×1/365×1/24=0.000000228この少年の死んだ時間に幻覚を見る確立は、したがって右の2つの積で0.000000000000057しかない。しかもその幻覚によってみたものが、コドモであり水の中に入ってゆく姿であったことを考えると、偶然に原因を求めることはできないであろう。
2章、私が聞いた不思議な話の紹介
第1話 影
慈徳院心光妙君大姉(母)からこの話を聞いたのは30年以上 昔。実は子供の時から、怪談の季節のこの頃になると 母はよくこの話してくれた。 「子供の時、夜中布団に寝ながら本当に真っ暗な部屋で真っ黒な人影を目撃して大層怖かった。丁度其の時、中の良い親戚の 女の子が亡くなったんだ。」との内容。其の時、話し始めた時は私は妙に執念深く ある矛盾に気が付いて迫った。
 「ねえ、かあちゃん灯り1つない真っ暗な 部屋でどうして真っ黒な人影が見えるの?」「その影の周りにから青白い光が出ていたんだよ」「じゃ全身部屋の四隅に 浮いていたの?」(しつこい馬鹿な子供だ)「いいや、肩だけの周りから 光が出でいたんだよ」「怖いなら眼をつぶって見なければ良いじゃない」(しつこい)「それが不思議なのよ怖いけどどうしても見たくなっちゃうんだよ」
第2話 人魂
怪談の季節のこの頃 やはり決まったように覚源院建道良俊居士(父ちゃん、この方が怪談ポイでしょでもちっとも効果上がんない感じです) は思い出話をした。埼玉の親戚に泊まり 夜中にトイレに行った時に夜目撃した人魂の話だ。 平凡な話だ。 しかし、私はその内容が面白かった。 覚源院「二つの人魂がとぐろを巻いていた そして真っ暗な中で其の周りだけ昼間の様な 明るさだった」 其の大きさ、どのくらいの高さの宙に浮いていたのか 天気は季節は何分ぐらい見ていたのかもっとしつこく聞けばよかった。その後、何人にも色々な人に会ったが人魂の目撃談 は聞かない人魂って珍しいと私は思う。 後、姉が誰かは忘れたが狐の嫁入りという物を見た と言っていたと聞いた。山の稜線にポッンポッンと火がついて 線が出来るが後でそこに行ってどんなに探しても火を燃やした後は見つからない。 古典では更級日記と、とはずかたりしか人魂の記述を知らない。
第3話 傘
私の母方の菩提寺は源氏の名流が開基で今も墓地にその一族の1人の宝篋印搭がある。母が子供の時の住職は名僧の誉れ高い人だった。 或る時、住職が夕べの勤行をしている時、使いが来て「恐れ入ります。私どもで不幸がありました」その話を遮るかのように
 「もうそろそろ誰かが来る頃だろうと思っておりました」「何故です?」「今、勤行の最中、和傘を差した綺麗な着物を着た子供の幻が私の眼の前を本堂に下駄を履いて消えて行きました。ただ髪を短くしていたので男の子だか女の子だかは解りません」使いの人はこの話を決して疑わなかった。たった今亡くなった子供に美しい着物を着せ枕辺に美しい和傘と可愛らしい下駄を置いたからだ。 そして其の子は女の子だった。長く臥せっていたために髪を 短くしていたからだ。母はこの話を悲しそうに語っていた。 この子供は私の叔母、母の姉だ。この事が起こった日も菩提寺 に行って墓石の叔母の命日を見れば解ることでそれは簡単に出来る。
第4話 白い可愛い生き物
太田豊さん(実名)と最後に会ったのは 安いギラリーで私の絵などの素人個展に太田さんが来て 一緒に食事をして以来20年は経過する。 この人、或る時、第3京浜を自転車で走行して「皆、物珍しそうに見ていた。とかしまいにゃ手振る人も出て来たぜ」なんて 私に話してくれたっけ。私の前職の製薬会社の手伝いで60近くで入社して私と知り合った。
 東京の明治大学中退だから東京の人彼の父は、役人あだ名は大久保彦左衛門その大久保彦左衛門 さん或る時自分の庭で白い小さな可愛い蛇を見つけて殺してしまった。するとそれから自分の長男が突然亡くなった。 それから家族の怪我、自身の怪我、不幸が相次いだので 思い余って陰陽師を訪れると大久保彦左衛門氏の話を一言も 聞く前に「貴方、自分の庭で何かを殺しませんでした それは家の守り神でその守り神の子供だったんです。 俺は子供を殺されたのでお前の息子も殺してやったんだ」 て言って怒っていますよ。大久保彦左衛門氏はびっくりして 庭に家の守り神の祠を建ててから怪事件は収まった。 或る時、太田さんの家は畳替えを行った。すると真っ白い 大蛇の抜け殻が出て来た。豊さんは私に語った。
 「君 畳の下に何でこんなでかい蛇が入るんだ。それに 誰もこんな蛇の皮入れてやしない俺はあの皮は家の守り神の 蛇の皮だと思う。と言った。 もし太田さんが生きていれば84歳になる年賀状のやり取りもないので今はどうしているのかは知らない。 私はこの話で有吉佐和子の確か助左衛門4代記を思い出す こちらは白い犬の祟りだった。
第5話結界
覚源院(とうちゃん)から聞いた話。 ある夫婦の親父が愛人を作って古女房をイロと親父が 追い出してしまった。古女房は2人を呪いながら死んだ。 暫くすると新しい女房は夜中に「うわー又来た」 と障子の上を指差す。「どうしたんだ」「古女房がその障子の 所まで来て悔しそうな顔して私を見ている」どうしてここまで来て入って女を取り殺そうとしなかったのだろうか 理由は簡単で障子の上にホニョホニョの札が貼ってあって 結界になっていたからだ。 親父はそのホニョホニョの神社、または寺院の名前を具体的に はっきり言っていた。そしてその呪われた夫婦の名前も これは周囲じゃ有名な怪談実話だったのだろう。 上の空で聞いていないでもっとしつこくその夫婦の住所とか名前とかホニョホニョ神社または寺院の札の名前を 聞いときゃ良かった。後悔している
第6話 うずくまる男
子供の時、近所のその高橋みよ(実名)家の玄関の前は必ず 走って通るのが私の習慣だった。 理由はもう40年以上昔のある日、母、姉、私の3人で 夜出かけ高橋みよ玄関の前を3人で通った時、みよが真っ青 な顔で出て来て「ねえ今そこに誰か居なかった?しきりにさっきからドアーを誰かが叩くのよ、でも誰も居ないの」しかし3人は誰も居ない事は知っている。後日その理由はみよの口から母に語られた「私の恋人は 学校の先生なのあの日、毎週土日に泊まりに来ていたんだけど あの日、あの時刻に大原交差点でバイクで亡くなったのよ」 つまり我々は見えない先生が戸を叩く時に偶然出くわしたわけだ」兄は「俺あそこの家の玄関を通る時誰か知らない男が うずくまっているようで気持ち悪いんだ」と語った。 私もそんな気がして嫌だった。もうこの女性はとっくに 亡くなった。ご子息も引っ越してしまい今はこの家にいない しかしその家、玄関は今もある。しかし怪異の噂は全くない。 みよさんは思い出しても1人の子持ちの中年のオバハンたいしていい女ではなかったと思う しかし、彼は会いたかったんだろうなと大人の気持ちが分かると思うのです。
第7話 大渡橋
萩原朔太郎の大渡り橋の詩を始めて読んだのは 高校の国語の教科書だ。或る時、偶然この大渡り橋 の話が会社の人との話で話題にのぼった。 桜井さん(実名)にこの話をすると「俺、群馬出身なんだよ 知っているよあの橋、思い出があるんだあの橋」「どんな 思い出なんですか?」「昔、あそこで叔父さんにあったんだよ 私をとても可愛がってくれて、私が十歳位の時かな向こうから 自転車に乗ってこっちへ向かって来るんだ。何時も可愛がっってくれたから私は喜んで手を振って、おじちゃん、て言った んだよ。すると何時もは可愛がって直ぐそばによって来る人が 怖い顔してすっと通り過ぎてしまったんだよおかしいな何時もはあんなに可愛がってくれたのに子供心に思ったよ後で母にその話をすると」「エッ!本当、其の時叔父さん前橋の空襲で焼夷弾の直撃で死んでいたんだよ」「でも間違いないあれは確かに叔父さんだった」 この人は話からも解る様にこの人は高齢だもう退職してしまった。
第8話 或る溺死事件
落合茂(実名)とはまだ年賀状のやり取りがあるが 最近は会っていない。会社の仲間定年退職した。 どうしてそんな話を聞いてしまったかは思い出せない この話は茂の田舎ではかなり有名な話だと私は思っている 古い話だ。 昔は山伏が各地方を修行で回っていたらしい そんな時代、茂の田舎にも山伏がやって来た。そして一夜の宿を或る神社の中に求めるとその夜の夢の神託にこの付近の是ぐらいの年の子に水難の運命があるから救う様にとの神託が有った。 早速近所の子供にそれに該当する子が居るか訪ね歩くと 居たのである。神託を聞いた家族はその子が水辺に近くなる時は決して離れようともせず。注意した。 或る時其の子に習字の稽古をさせていたので水など周りに無かったので1人で稽古させて暫くして大人が来てみると子供は死んでいた 硯の水を飲み咽喉に詰まらせ窒息死していたのだ。 そして習字の稽古の字は「川」と書いたあり、その川の字下に 頭があって川で溺死した様な格好になっていたのである。
第9話 夏は花火が1番かも(営業妨害のつもりじゃない)
江戸時代山王日枝神社の大祭の前、御輿がぐっしょりと濡れ 人々は何か不吉な前触れと恐れた。其の直後、永代橋が突然 壊れ橋の上に居た。多くの人々が亡くなった。 それに心を痛めた徳川吉宗は亡くなった人々の供養のため 花火を大会を催す事を決め今に至っていると聞いた事があります。 もう一つの楽しみは海水浴ですが、私はこれには少し抵抗があるのです。それは或る時NHKのテレビで或るバンドの恐怖体験を話していた時。バンドマンは昔、ドライブで海に行った時の事、何時もおどけている奴が浜辺で溺れた様な仕草でふざけている。そして「おいもうふざけてないで早く行こうぜ」と 言うとそいつはべそをかいていた。「おいどうしたんだ。怒らないから言ってみろよ」「ウワーン防空頭巾を被った無表情な 人が俺を海に引きずり込もうとしたんだよー」と言ったそうだ。
こんな話になって会社のメンバーに話すと。昔40年ほど前、千葉の勝浦(千葉の地理に詳しくないので間違いかもしれない)の林間学校かなんかで何人もの子供が死んだんだ。俺の知り合いに直接その子供の生き残りの子から話を聞いた人が居たんだけど「泳いでいたらなんか尖がった帽子みたいな物を被っている人が引きずり込もうとしたの」と言っていたそうだ。
第10話 懐かしい実家と幼くして亡くなった姉が父の夢枕に立つ
 あれは覚源院(父の戒名※こうすれば本名を書かなくて済むので申し訳ありませんそう表現させていただきます)が亡くなる3ヶ月くらい前の事だったと思います。入院先での病院で父の実家の(今は従姉が経営しているマンションになってしまい昔の面影はなく私も思い出だけしかありませんがその叔母と従姉)叔母と従姉が、叔母は父には義姉で昔は実家で一緒に暮らしていましたが父が病気と言う事で見舞いに来たのを私は目撃したのです。 その時は直接は私は叔母と従姉とは話はしませんでした。ただ非常に不思議に思った事は父の実家には父の病気の事はまだ全く連絡していなかったのに何故どこで父の病を知ったのかと私は思ったのです。それは後でで間接的に家族から叔母と従姉に聞いた話によって納得出来ました。 叔母か従姉がどちらか先かは知りませんがまあかりに叔母としておきましょう或る日、夢を見たのだそうです。その夢とは、夢の中で父ともう死んでしまった母が玄関に黙って佇んでいるのだそうです。叔母は「義経ちゃん静ちゃんそんな所に居ないで上がりなさいよ、※まあこれも物の譬えです」と声をかけると二人とも黙って後ろを向いて返ってしまいました。あくる日もまたあくる日も同じ夢を見て遂にはその事を話もしないのに従姉が私ホニョホニョの内容の夢を見たのよと語り二人は同じ夢だと知ってびっくりして、恐らく私達家族にはこの誠に奇妙な夢の事をきっかけに父の安否を問い合わせ出来なかったのでありましょう、色々と他の親戚に問い合わせて父の入院先を知ってお見舞いに来たのだそうです。 この時、勿論、そしてこの奇妙な夢の事は父、当人には決して私達家族は話しませんでした。この奇妙な夢を叔母と従姉が見た時には父は本当に生きておりました。しかし何故、もう故人である母の慈徳院と一緒に叔母と従姉のそれも終いには二人同じ夢の中に現れたので有りましょうか私には人の心の不思議を感じない訳にはゆきません、父と母にとっては懐かしい実家で懐かしい二人だったのでしょうか生きているうちに会いたかったのでしょうかしかし父はこの時まだ自身の病が不治の病とは全く知りませんでした。また、 この病院で父は夢を見たそうです。父の夢にまだ言葉も話せない位、幼くして亡くなった姉がなんと可愛い童女に成長した姿で父を叱ったそうです。父は姉から見れば少し頼りの無い生き方をした様にに見えたのでしょうかなにを叱ったのかは家族から聞きましたがそれは申し上げられませんただ何故父は幼子で亡くなった姉が市松人形の様な姿であらわれてそれが姉だと解ったのでありましょうかこれはただの夢なのでしょうか私にはそうとは今も思えないし思いたくないのです。何故なら姉は可愛いらしい御稚児さんに成長しておりました私はなどは自作の物語の中でたぐいまれな美しい女性にまで成長させておりましたそれを思うと私はこの夢をただの夢とは絶対に思いたくないのです。
第11話 2013年3月2日高尾にお墓参りの時に兄と自動車の車中で話した不思議なことの思い出
 母の命日が3月4日なので3月2日に兄の車で高尾にお墓参りに行って来ました。帰りの車中でそうだ八王子霊園のほうから帰ろうと車で行った時、兄は必ず友人の富士さんの話をする。それは「富士君が友人の倉本さんに誘われて八王子霊園に一緒に来た時の事、※富士さんは家庭の事情で実家とは音信不通でした。フッと或る墓石を見ると富士さんの父親の名前でした。前述の理由で富士さんはお父さんの葬儀、墓参も行っていなかったのです。またお父さんの墓所が八王子霊園とも知らなかったのです。これは何と言う偶然でしょう富士さんの話によるとお父さんが亡くなった時「どこからともなく僧侶の読経の声が聞こえたり、また誰かがドアーを叩くので外へ出ると誰もいなかった」と言っていたそうです。ドアーを叩いて誰もいないと言えばこれも私と兄の想い出、もう随分昔近所にお身体が不自由な金子さんという女性を母がよく面倒見て居たのですが調度亡くなった時間帯にやはり扉を叩く音がして私が出てみると誰も居ませんでした。そのすぐ後、電話が有って「金子さん亡くなった」とのことはっきり思いだせないのですが家族の誰かが「金子さんはお母さん世話になったので挨拶に来たのかもしれないな」と言っていた記憶が有ります。母の事で思い出したのですが亡くなる2〜3日前、夢で母の手を引いて階段を上がっていた時、母が急に苦しみ出したのです。「心臓が苦しいの」大慌てで母を抱きかかえたその時、眼が覚めました。「妙に現実感の有る夢だな」私はそう思いました。しかし亡くなった時の病気は心臓では有りませんでした。また兄がよく話をするタマサンの話、知人のたまさんが車に乗っていてフッとルームミラーを見ると座席にお爺さんが座っていましたがフッと消えてしまったそうです。皆にたまさんがその話をすると「疲れているんだよ、錯覚だよ」と言うばかりで誰も本気には聞いてくれませんタマサン曰く「原ちゃん本当なんだよ、本当なんだよ」と言っていたそうです。私も兄も本当だと思っています。述上の車中で話をしたことは皆本当の事だからタマサンの話を信じない訳にはいかないからです。
第12話 夏休み兵隊さんの想い出
  子供にとって楽しい夏休み終わりです。大人だって夏は色々行きます。夏休みと言うと姉から聞いた二つの話を思い出します。一つは夏休みの合宿と私が勘違いしているのかもしれませんが姉の会社の上司の梅沢さんは良い人で姉に、「※調布か府中と記憶している 俺中学の時野球部だったんだよそして夏に校舎に泊まり込むと軍隊の軍靴の音が誰もいない筈の階段から下りて来るんだよ聞いちゃったんだ」と言っていたそうです。そして姉は大昔、新島に行きました。民宿で働いている女の子と夜遅くまでお話千葉の四街道出身のその子が「中学校のお掃除で便所からなかなか出ない人が居て思い切って明けたんです。そうしたらカーキ色の軍隊の服着て居た人いたんです。」誰だか解るでしょ兵隊さんです。

3章、不思議な話やその知識を自分の心の騙しに使ってしまった。
4章、宗教心(宗派心)と信仰心とは違う