感性個性を述べましたが今度は特に若者の感性、個性の問題について述べます。現代の教育体制は
コンビューターによる偏差値を元に人間の能力を振り分けしています。
ところで古代中国の若者の挿話、若者2人が雇われ田を耕していると1人が「富貴なっても互いに忘れまい」
と言うともう一人が「雇われ田を耕すお前が富貴になれまい」と言うと先の若者は「燕雀安んぞ鴻鵠の志
を知らんや(えんじゃくいずくんぞこうこく のこころざしをしらんや)。(ツバメやスズメのような小さな鳥
にはオオトリやクグイのような大きな鳥の志すところは理解できない小人物に(大人物)の遠大な志は理解
出来ない)と言った。
この若者の言葉は将来何かたまげる事をしでかす未来を暗示させる言葉だ。事実後に歴史を変えるこの人
を司馬遷は無能の人と言っています。
では何故この人物に歴史を変える様な事が出来たかと言えばこの人が馬鹿だから良く言えば志を
持っていたから、夢を見る事が出来たからです。
コンピューターは人の側面の能力を正確に予測する。が、それは人のほんの一部分の能力の推測に過ぎない。
コンピューターのプログラムは一生の賃金、住宅ローンとあらゆる将来の予想を予測する物まであるという。
しかし電子計算機は愛さない、憎まない、笑わない悲しまない、そしてなによりも志を夢を見ない「夢のない
科学者は天才にはなれない」とボーアは言った。あの理路整然とした科学の世界でさえ夢がなければ駄目だ
とこの天才は言う。
明日自分の立っている場所の天気を予想すら出来ないスーパーコンピューターより時に人は未来の夢を
描く若者を、それが実現不可能な大きな夢と感じられても、夢を抱く若者を信じるべきです。その為に人は
横にあるコンピューターを思い切って横のゴミ箱に捨てる勇気を持つべき時もあります。
司馬遷は或る人を描写する時、その人の若き日の挿話で未来を暗示する。先程の陳勝もその一人です。
我々は我々の前に颯爽と現れて何かとてつもない未来を暗示する志を夢を熱ぽく語る若者を待つ、
そして、その夢を決して「雇われ田を耕すお前が富貴になれまい」と言った人の様に笑っては成らない。
そう言て若者を笑う社会を作ては成らない、時代は若者が作る。だから時に人はコンピューターをゴミ箱
に捨てても若者を愛さなければならないのです。
下の画像は私の母の命日に位牌に供えた品物、上、鶏頭手金更紗のマフラー、下右はベネチアグラス
(イタリア製)のペンダント下右、伽羅※この伽羅を聞香炉で焚きました。女性の物ですので私は使用し
ないので引き出しの奥深く眠ってしまう品物、いいや来年もまた何か購入致します。香木も朽ちるもの
では有りません銘は常盤ノ松と申します。
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