明 月

 

 香りの十徳に「よく汚れを除く」とあるが汚れを除く行為、例えば掃除とその結果として得られる清潔は徳の一つなのか?確かに不潔よりも清潔なほうが良いに決まって

いるが徳と言う程大袈裟な物ではない様な気もします。

 天皇は生まれ変わる前に十善の徳を積んだから天皇に生誕したとよく言われる、それ程、徳と言う言葉には重みがあります。

 その徳の一つが「汚れを除く」です。確かに清潔にした後の部屋に香りを空薫などをしたら部屋も、その室内の空気も一新され気持ちが良いが返す返す徳と言う程大袈裟

な物ではない様な気もします。

 けれど昔から清潔はただ見た目が好いからと言う様な単純な事では済まされない精神性を含むとも言われています。

 では清潔な暮らしは健康に良いから何かいかにも精神性があるように言って健康増進のため大切な行為と宣伝したのだろうか?例えば健康と言えば歯の清潔、不潔を

例に取れば。 子供が歯科医に行き。たまたま子供に虫歯が一本も無かったすると。歯科医は子供の歯を見て大仰に「なんて歯並びが美しい歯だろう!なんて歯並びが美

しい歯だろう!」と唸りながら歯を褒める。

 これは歯科医の子供に歯を大切にしてもらいたいがためにつく嘘だ。何故なら人間の歯並びなんて十人が十人が変わる訳は無いから、子供はこの嘘により単純に歯を

大切にしなければと、その日から毎食度に歯を磨く。

 世間の人の何人かはこの様にして虫歯に伴う口臭や歯の痛みから、ひいては歯の不健康に伴う消化器の不調や全身病の引き金になる歯周病から一生開放される。

 或る物を綺麗にする事がこの様に、ここでは歯を例に取ったが実際に何かに役に立つの物なら清潔にする行為の掃除一種、歯磨にも身が入るが部屋が少しぐらい

汚くても痛くも痒くも無い、まして死にはしないので、つい不潔な生活をする事が凡人の習いです。

 なにせ綺麗に歯磨をすれば虫歯に伴う口臭や歯の痛みから、ひいては歯の不健康に伴う消化器の不調や全身病の引き金になる歯周病から一生逃れられるものを

歯も磨かずに七転八倒の苦しみをする人もいるくらいなのだから。

 こう考えると香りの徳と言われる「よく汚れを除く」から思い起こされる清潔と言う事は案外実践しにくい事なのかもしれないので汚れを除く行為、例えば掃除とその結果

として得られる清潔は徳の一つと大袈裟に昔の人は宣伝したのかもしれない。

 ところで清潔を作り出す掃除にまつわる話でこんな話も伝わっている。茶道の大家竹野紹鴎の若き日の千利休が入門を申し込むとは紹鴎は利休に「庭の掃除をせよ」

と命じた。 紹鴎が掃除し終わった庭を見ると清らかな庭に故意に数片の落葉が散らされが風情が演出してあった。紹鴎は「この若者は只物ではない」と利休の入門を許

したと言う話です。

 乱れ髪の美しさもそれを引き立たせるのは清潔の基礎あればこそ。この利休の掃除の話は掃除と言う行為に創意を付け加えた行為と言える。

 こう言う行為は美に近付く否、さらに宗教的な悟りの道へ通ずると言っても過言ではない。たかが掃除と言う人も居るがこうなると掃除は単なる健康維持のためにだけ

にする行為とは言えなくなってくる。確かに健康は大層大切な物ではある事は間違いはない、だが、やはり古人の言う様に精神性を確かに含んでいる様です。

 精神性を含んだ掃除と言う言葉で仏弟子の周利槃特の悟りに至る美談を思い浮かべない人は居ない事でしょう。

 そして掃除を善とするならば毎日の掃除は小善と言える。だが小善を積み善を継続させる事は難しい、汚れを小悪とするならば小悪を積む事はいとも簡単です。

金は貯らないが埃は意図も簡単に貯る事は日常嫌と言う程経験をします。

 部屋が少しぐらい汚くても痛くも痒くもまして死にはしないので、つい不潔な生活をする事がの凡夫の習いだから人はつい“善とも言える掃除の習慣と言う貯金”

を貯めるのを怠りがちです。が、怠りがちである“掃除と言う小善の貯金”は貯めなければならない

 「積善の家には必ず余慶あり積不善の家には必ず余殃あり臣にして君を弑し子にしてその父を弑しするは一朝一夕にはあらずその由て来る所のものは漸なり」

との言葉は物事は埃の様に何時のまにか気付かないうちに積もり積もって段々と大きく成り気付いた時にはどうしようも無い事を言った言葉を噛み締めるべきです。

 返す返す掃除の様な一見地味で役に経たなく見える行為を積み重ねていく事が善であるならば、この大切な行為をおろそかにすることは悪であると言えます。

 例えば掃除ではないが地味で役にも経たなく見えるが大切な行為と言う事で思い出されるのがインドのモヘンジョダルの遺跡です。

 モヘンジョダルの遺跡は焼いた煉瓦で出来ていた。遺跡の創立時代の古い時代(物事で言えば初心)の間は煉瓦と煉瓦との隙間は剃刀一つ入らない、でも時を

経るとその仕事は雑になり隙間だらけになって行くと言う。

 掃除の様な一見地味で役にも経たなく見えるが大切な行為を大切に出来ると言う事は実は心の退廃を克服出来る善的行為を継続出来ると言う事だ。

 掃除の様な大切な行為をおろそかにする事は悪だ。それをと呼ぶならば、ただ掃除をきちんとやる事で次の言葉から逃れるかもしれない。

 「積不善の家には必ず余殃あり]この言葉は自分が作った原因、地味で役にも経たなく見えるが大切な行為をおろそかにする事で子や孫に悪い結果出る」とも

解釈出来ます。

 積不善の恐ろしを考えさせられる言葉です。家庭の積善、積不善、とは掃除の様な一見人地味で役にも経たなく見えるが大切な行為を“おろそかにするか

”“大切にするか”と言う二者択一だ。

 二者の選択で結果が別れるならば道は困難でも小善(清潔を貴ぶ清掃と言う行為を)積み重ねていきたい物です。また掃除ひいては清潔の意義を別の事柄

から考えて見ましょう。 幼児が神社に行く時、親に必ずする質問に「神様はどこに居るの?」と言う物があります。


 親は「神社の御神体の鏡に写るお前の姿が美しければ神、汚ければ魔を写す」と素朴に教える。これは人の心の投影を表す比喩です。また宮城道雄は

「人は騙せても楽器は騙せない」と言ったそうです。

 ところで日本は稲作国です。熱帯でない日本では細心の注意、細心の手間をかけないと稲は減収です。気難しい稲は人間の扱いが素直に投影されます。

この事は日本文化の特徴、謹勉は善との心の在り方を生み出し、敍上の信仰や芸術などの考えにも影響を与えました。

 また水に恵まれ入浴など清潔な環境が整えやすく、また稲作文化によって培われた謹勉性は清潔、謹勉は善と言う風土国柄を育て上げた様な気もします。

 この様な風土国柄は一般家庭でも受け入れる事は望ましいと言えましょう。では具体的にはどの様に心掛けで望めば良いのだろうか?

 まず、たまには小さな室内を現場百回とばかりにする観察の実践と、室内の掃除、壁などは塗装による化粧直しで私達の家庭内の美観に自身の心の投影を

見出だし自身の心の在り方の向上を図る。更に人目に触れない所にも気配りが及ぶ様に実践する事を目標としたい物です。

 人目に触れないからこそ、人が嫌う汚い所にこそ気配りが及ぶ様に実践する事、これは「一歩踏み込んで人を喜ばせる」行為または「上善は水のし水は善く

万物を利して争はず衆人の悪く所に居る故に道に近し」との言葉の実践なのです。

 また「かって倒産した企業で綺麗に整然と掃除が行き届いた会社はない」などとよく言われます。その言葉が的を得た言葉であるならば、この言葉の逆を実践

する事。もし見えぬ所まで綺麗になれば家庭の繁栄、企業の繁栄ひいては国家の繁栄に繋がるとの希望がも持てそうです。


 でもこんな事を言う人もいる事でしょう「古い家、物など掃除をしても同じではないか!」と。

 確かにもう古くなった道具、家などを丹念に掃除する事は馬鹿馬鹿しい事ではあるがそれを清らかに使う事は「心は何時も新しい初心を忘れず慣れに伴う心の

退廃に打ち勝つ事」と言う努力に他ならない、以上の事柄を端的に表した孟子文章を紹介すると。

                                     孟 子 曰 く

 「不仁者は與に言う可けんや。其の危うき安をしとし、其の災いを利とし、其の亡ぶる所以の物を楽しむ。不仁にして與に言う可くんば、則ち何の国を亡ぼし

家を敗ることか之れ有ん。

嬬子有り、歌って曰く「滄浪の水清まば以て我が纓を濯う可し、滄浪の水濁らば以て我が足を濯う可し」と   

孔子曰く「小子之を聴け清まば、以て我が纓を濯ひ、濁らば斯に足を濯ふ。自ずから之を取るなり」と

夫れ人必ず自に侮りて然る後人之を侮る。家必ず自ずから毀りて而る後人之を毀る。国必ず自ら伐ちて而る後人之を伐つ

大甲に曰く「天の成せる災いは猶違く可し。自ら作せる災いは活く可からず」と此れ謂うなり

                                   孟 子 は 言 う 。(口 語 訳)

「不仁の者とは共に語ることはできない。不仁の者は危険なことを安全だと取り違え、わざわいをもたらすものを利益あるものだと取り違え、

そして滅亡のもととなることに耽溺する。不仁の者でも何か一理あるようならば、亡国亡家などこれまでなかったに違いない。

子供がこんな歌を歌っていた、

漢水(かんすい。湖北省の大河)きれいなら、纓(ともづな。冠のひも)洗え漢水汚けりゃ、足洗え

孔子はこれを聞いて言った、『諸君、聞きたまえ。水がきれいならば君子の象徴たる冠の纓を洗い、水が汚ければ足でも洗えと言う。水が相手の行為を変えたのだ。』と。

そもそも自分が他人をあなどれば、後に他人が自分をあなどるようになるだろう。家が自らを荒らせば、後に他人がその家を荒らすだろう。国が自らを滅ぼせば、

後に他人がその国を滅ぼすだろう。
書経『太甲篇』にこうある、


天の下すわざわいはまだ避ける道もあろうが、みずから成せるわざわいは逃れる道はないと。これらの言わんとすることは、まさに今言ったことだ。」



 また童話の白雪姫の「鏡よ、鏡よ、鏡さんそっと教えて下さいな世界で一番美しいのは誰?]との魔女の問いに鏡は「世界で一番美しいのは白雪姫」と答える。

 でも、私達は色々な物に自身の心の内を答えさせている。初めてある職場を訪れた時、その職場の美観は無言に答えている「全てではないけれど、ここで

働いている人達の心の在り方の一つの表れが今の私の職場の姿なのよ」と。

 「神社の御神体の鏡に写る人の心の在り方の姿が美しければ神、心の在り方の汚ければ魔」との素朴な教えは、実はどこにも日常見られる事なのです。

 香りが目指す精神性は清潔にした後の部屋への空薫などではなくそこに行き着くまでの心の在り方なのです。

 また大寺院が国家安穏、万民芳楽などを祈願し香りを仏へ供へ焚くのも香りが勧る精神性の一つである清潔(ここではそこに行き着くまでの心の在り方)を

進める事によって禍福安危は自ら招く放逸を克服し、香りに依って清潔(そこに行き着くまでの心の在り方)進め国家安穏、万民芳楽を願う事なのです。

 雨上がりの美しい清らかな明月、月を御神体の鏡に写る美しい心の在り方の人の姿と例えると香りはその清らかな明月を一層清々しくする薬草喩品で説かれる

法雨の様な存在なのです。


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