哀れなる魂  破の段 第5部 東京五輪の日に

引く混血児で異国情緒と沈香の香りを漂わす傾国でも俺は、お前の方を愛する。しかし何故、美しい女はか

くも不幸な人が多いのだ古
より佳人は多く命、薄しとは智恵子、お前のために有る言葉ではなかったのか。

そんな事を思い俺は激しく泣いた。

 そして外から救急隊と息子が来た。しかしもう遅かったのだ。息子は「お母さんをこんなにしたのは、お

前だ!」と泣く俺の背中に罵声を叩き付けた。更に「お母さんとは楽しい思い出が有るが、お前なんかとの

思い出に楽しい事など1つも無い!」と言い終わると、俺が抱く智恵子の体に縋って泣くのだった。

 一体、何時から俺達3人の人生は狂ってしまったのだろう。昔は3人で、そう、まだ皇太子殿下が東宮御

所に独身で住んで
られた頃、智恵子が「皇太子殿下の誕生日に皆と一緒に提灯行列を見に行きましょうよ」

と言ったので女中さんや使用人さんに提灯を持たせ俺は息子を抱き闇に浮かぶ提灯を頼りに東宮御所へ行く

と殿下がバルコニーから手を降って居られた。

 あの時の親子3人の幸せはどこに行ってしまったのだろうか?智恵子は「東宮御所のお庭には源氏香の図

のお池が有るそうよ見たいわね」と言った。「源氏香の図か、今度良い
六国を買って来るから一緒に聞こう

」などと話した。

俺の脳裏には、あの幻の様な提灯の灯や彼女の愛した幽幻の世界に人を誘う香木の薫りともう1つ彼女が愛

した色々な花の美しさが白馬の様に走り去って行った。

灯の思い出も香の思い出も花々の思い出も誠にはかなく優しい。まるで智恵子その人の様に。優しいと言え

ば子供の時、智恵子が螢を取ってとせがむので俺は大層張り切って螢を取ってやった。すると智恵子は急に「

逃がしてやって」と俺にせがんだ。俺は、むっ、として「どうして?」と聞くと、智恵子は急にうつむいて

、ただ一言、可哀想と言った。螢か。 螢。仄かなる夜の螢のほかげこそ更にはかなき身を焦がしけり。と

言う三条西大臣の歌や源氏香の図が楽しかった智恵子との香遊びの情景と共に俺の脳裏に浮かんだ。

 さっき俺はこう言った。俺達3人の人生はどこで狂ったかと、そうだ。今更ながら思った。螢で思い当た

った。この螢の光の様に美しくはかない美女、はかない光の様な佳人を俺は、俺と言う虫籠の様な男から早

く放ってあげるべきだったのだ。過去の栄光ばかりに囚われている馬鹿な虫籠の様な男から、それが本当の

優しさだったのだ。

 けれど余りにひどすぎる。俺は智恵子と1回、離婚した。けれども実は俺は彼女を愛していて虫籠の様な

奴だけど離れなかった。やっと最近、仕事を探す気力が出たと言うのに、やっと復縁したと言うのに。折角


また幸せを掴み掛けたのに。

 ところで子供の時、俺は運動会に行った。そして、お母さんに風船を買って貰ったが、馬鹿な俺は風船を

離して空に飛ばしてしまった。風船を離したのは俺ばかりでは無かった。多くの風船が、赤、青、緑の色と

りどりの風船が飛んで行ってしまった。俺の幸せもあの風船と共に飛んで行ってしまったのかな?幸せを掴

もうとすると、ふわり、と何時も飛んで行ってしまうから。

 そう言うと老人は、またも、ぽろぽろと涙を流し泣き出した。私は黙っていた。すると老人は涙を押さえ

また話し出した。 俺はエフェドリンを買うために取って置いた例の金で智恵子の葬式を済ませた。智恵子

は皆に愛されたから多くの人が集まった。俺と言えば、立ち直ろうとしたが駄目だった。そして俺はまた酒

を馬鹿飲みした。「せっ、せっ、せっ、洗面器、洗面器!」でも智恵子はいない。俺は口一杯に詰まった反

吐を手で押さえて洗面器を持って来た。そして寝床に滑り込む様に倒れ、洗面器に「オウェーッ、ゲロゲエ

ロ、ゲロゲエロ、ゲロゲエロ」と反吐をぶちまける。

 俺は情け無くなった。俺の会社はもう俺の物ではない、その会社も、あのビルも実はもう存在しなのだ。

■■の家も農地改革、更に智恵子の弟の事業の失敗で跡形も無く消えた。空しい。俺が人生で得た物は、こ

の小さな洗面器ただ1つの様な気がした。俺は独り言を言った。「昔の俺は、どこへ行った。何時も弱い人

々の解放を理想とした俺が……同志で有る筈の八路軍の兵士をこの手で殺したのだ」そして薫の髪と香木、

■■■■
の中から取り出した。

 「可哀想に薫。きっと生まれ変わったら、お前と結婚して幸せにしてやる。智恵子も一度くらいなら許し

てくれるさ。今も
の大地で■■■■と共に1人ぼっちで眠っているのか。思い出すよ、伽羅、■■を香鋸

2つに切った日の事を。
伽羅の女よ、済まない薫、お前をあんな所から救えなくって………俺は戦う生まれ

変わったら虐げられた人々のために、薫のため智恵子のために……………」もう道化(fool)は出来ない事を

悟った俺は服毒自殺をして死んだ。 

俺の葬式には人は集まらなかった。神様は見ていたのかもしれない、まるで智恵子が善人、俺が悪人で俺は

智恵子を、ただ引き立たせるための道化でこんなになってしまった。そう仕組まれている様にさえ感じられ

た。息子は納骨の事など仏事の事が分からず思い余って■■■の住職に相談した。住職は親切この上なかっ

た。「お母
  

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