哀れなる魂  破の段 第5部 東京五輪の日に

は仕事をして忘れて下さい。幸い今、無縁仏の納骨堂を作っている所なのです。無理にとは言いませんが手

初めに、それを手伝って見ません
か?」「やらせていただきます」俺は直ぐ納骨堂の工事を手伝った。とこ

ろで昔、俺は画家になろうと絵の修行をしていた時があった。俺は思い着いて住職にこう言った。

この納骨堂に仏画を書きたいと。住職は本当に良い人だった。手伝っている俺に金をくれたばかりでなく絵

の具や材料費も自分が出すと言い、さらに画家に頼むのだからその金も出すと言ってくれた。

 笑ってくれ、俺は実は少しの金は取って置いた。しかし、その金を何に使おうと思っていたかを知ってい

るかい?長井博士があれ程、合成を後悔していたヒロポンを、エフェドリンを原料として買い込んでヒロポ

ンを合成して大儲けしようとするために。ピロポンの原料のエフェドリンを買うために取って置いた金なの

だ。

 何と言うげすな、何と言う愚かな考えであろう。だが今の俺には、もうそんな考えは無くなっていた。俺

はその金を取って置いて家族のために使う事にした。そして絵は住職に甘えて金を出して貰う事にした。

 でも絵が書けるだろうか?不安は有った。の石灰モルタルの上に絵の具で書くフレスコ画だから素早く書

かなければならない。フレスコ
は確かFlashが語源の絵だ。書き直しが利かない。俺は幾度も夜遅くま

でデッサンを重ね、原寸大の下絵も作り絵の具を塗る練習をした。しかし、その事が俺の精神を生々させた

。それに僅かな手間賃でも、やり甲斐が有る仕事で貰った金は嬉しかった。

 納骨堂は完成し十界を描いた仏画も完成した。俺は次の仕事を探し始めていた。そんな或る日、智恵子が

「今度、あの子の中学の授業参観
に一緒に行きませんか?」と言った。俺は一緒に行く事にした。

 その日、智恵子は嬉しそうだった。「貴方が新しい仕事を見付けて、旨く勤められる目途が着いたら色々

な寺社をを回りたいわ一緒に行ってね。」俺は突然「止めろ!」と怒鳴った。余りの剣幕に智恵子は「どう

したの?」と聞いた。「済まない、ひどく不吉だと思ったんだ。俺のお母さんが死ぬ前に今と同じ事を言っ

たのを思い出したんだ」「叔母さんが偶然よ」と智恵子は笑った。

 「そうだ!少し早く行って学校の音楽室でピアノを弾かせて貰おう。借金の肩にピアノを取られてから4

年近くも弾いて無いからな」「大丈夫、5〜6年も弾いてなくて弾ける?」「大丈夫だ。トスカニーニは1

0数年チェロを弾かなかったが、昔、弾いていた曲を暗符してたって
言うぜ。俺だって未だ捨てたもんじゃ

ないぜ」そう言って俺は
若い時に弾いたショパンのエチュードの楽譜を持って参観の始まる前に、久し振り

にピアノを弾くつもりだった。 中学校に着いて音楽室を探し尋ねると、部屋は2階だった。智恵子は先に

音楽室に上がろうと階段の途中に差し掛かった時、突然苦しみ出したのだ。若い時から心臓が弱かった智恵

子の発作であった。

 俺は叫んだ。「誰かっ!救急車を頼んで来て下さい!」生徒達が集まり救急車の段取りを頼んだ。智恵子

は苦しい息の中で「最後のお願いが有ります。死ぬ前にショパンを聞きたいわお願い早く」「分かった」俺

は彼女を抱き上げて楽譜を持ちながら2階の音楽室へ行った。 机に彼女を寝かせ様とすると。彼女は椅子

に座りたいとせがんだ。一旦、机に寝かせてもさらに彼女は「ピアノを弾く貴方のそばに座らせて」とせが

んだ。俺は言う通りに直ぐ椅子を持って来て俺の右側に椅子を置くと彼女を静かに机から抱き上げ座らせた

。楽譜を急いで広げると曲は練習曲第3番、別れの曲だった。

 俺はゆっくりと弾き始めた。美しい旋律は甘く薫る様に音楽室一杯に広がった。智恵子はぐったりと俺の

右肩に寄り掛かり苦しみながらも安らかな顔に成って行く様な気がした。その顔はそう、この時は春だった

。その春の麗かな淡い幸福に踊る風と光に輝き美しかった。俺は涙がはらはらと流れた。別れの曲の和音を

静かに閉じると「智恵子!死ぬな!」と言って抱き締めた。智恵子は苦しそうに「さようなら、貴方。この

世の思い出に美しい思い出が出来ました。


さようなら……。」そう言うと智恵子自身の人生と言う曲の和音を、静かに閉じたのだった。 智恵子の人

生と言う曲は、このショパンの曲の様に内気でしかも華やかで可愛らしく気紛れな転調と美しい旋律と芯の

強い激しい情熱を持っていた。しかしその人生の最終和音は今、静かにショパンの曲の最終和音が響くと同

時に終わったのだった。しかし俺の悲しみに打ちひしがれた魂の内には未だ華やかな智恵子の人生と言う曲

は今、終わったにも関わらず美しく回想として流れていた。

 ああ、ミッションスクール始まって以来の美少女と言われた女よ。俺は、その女を幸せに出来なかった。

かくも深く愛しているのに。未だ美しさの残る38歳であると言うのに、美しい人は早く死ぬのだ。細川ガ

ラシヤも
小谷の方も皆そうだ。かの楊貴妃も38歳で亡くなったのだ。楊貴妃の美しさを称えて白楽天は「

天生の麗質自ずから
から棄て難く。一朝選ばれて君王の側に在り眸を回して一笑すれば百媚を生じ六宮の粉

黛顔色無し
」と。でもここに楊貴妃が居ても俺は見向きもしない。白い清楚なブラウスを着たお前の方が美

しい。楊貴妃が
胡の血を  

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