哀れなる魂  破の段 第5部 東京五輪の日に

 まだまだ有る。俺はなぜだかに生きているのが申し訳ない、戦死した人に申し訳ないと急に思い、部屋の

西南北へ首をうなだれ戦地に礼をしなければ、そう言う儀式を行わないと、居てもたっても居られない、ま

るでペンギン鳥の様な姿をする強迫観念にかられた。

 その儀式、自分でも愚かだと分かっていても逃れられない儀式を毎日繰り返すのだった。そして、そのだ

びにこう思う。死んだ奴等に会わせる顔が無い、でも守ってくれ俺はもうどうでもいい息子を俺みたいにし

たくない。息子の心を戦争で傷付けたく無い、俺の息子を俺と同じ人殺しにしたく無いのだ。どこかの国の

両親に愛されて育った子供を俺の息子に殺させたくは無いんだ。と思いながら。

 そして仏壇に今まで一度も手を合わせた事の無い俺は近頃、手を合せる様になった。でも、こんな事では

許されまい。世の中には人間だから間違いも有る、仕方が無い人間だもの、と言う人がいる。良い、便利な

言葉だよな、ちょつとだらしのない人には、でも俺自信そんな言葉は無くすつもりでせめてお祈りでもして

頑張ら無いとさらに堕落に拍車が、掛かる様な気がした。

 けれど俺の様な奴が祈って何になるとも思う。仏に懺悔してなにになる。悪い事をやり尽くして最後に「

御免なさい」で済んだら世の中何て楽なもんだよ。

 祈り何て実は日常全ての行動の集積の一部に過ぎない。俺はその日常が間違っているのだから駄目さ、食

べる、歯を磨く、糞をする、女を抱く、男に抱かれる、そんな日常の生活の中で真実の素晴らしい物を見付

け出すのが祈りだろ。日蓮と言う人は南無妙法蓮華教と一生に一度祈れば良いと確かそんな事を言ったらし

い。

 でも本当は1回も言わなくとも良いんだ。言う事が救いなら唖は永遠に救われまい。日常のあらゆる行動

、例えば糞をする様な一見汚い行
動も人間の完成度を高める洞察になるなら、それが祈りだろ、出家して修

行するのは辛いと言うが本当は一般社会で深い洞察を知るのがもっも辛い様な気がする。

 俺は真正面から一般社会の嵐の中で自分を磨き人間性の完成度を高める事から逃亡して酒に溺れ妻を働か

せ自分は怠け安穏として暮らした。祈りとは日常の暮らしの中で人間性の完成度を高める事だ。

 仏壇に祈る事は、それが集約したのに過ぎない。丁度、野球の選手がホームランを打ったのは実は日常の

練習の集約した結果と同じ様に。俺には分かっていた。今更どの面下げて仏壇に向かえるか、と言う事が、

それでも、そうせずにはいられない程、俺の心は追い詰められていたのだ。

 そんな時だ智恵子が夜遅くなっても帰らず家族を心配させたのは。しかし漸く帰って来た。俺は聞いた。

「どうしたんだ?何かあったのか?何時もは、
こんなに遅くなる事は無いのに」「死のうと思ったの」「何

だって!」俺と息子は驚いた。更に智恵子は言葉を続けた。「でも、止めたわ、偶然お坊さんに止められた

の。

私はもう疲れたのよ死のうと思って夜の街を彷徨い最後に川に身を投げ様と思って決心して飛び込もうと思

ったのよ」「お母さん、そんなに思い詰めていたのか。この野朗!」と息子は俺に殴り掛かろうとすると。

智恵子は「もう止めて!私の話も聞いて!」と言った。

 智恵子がそう言うので俺達は智恵子の話を聞く事にした。「川に身を投げ様と思った時、50くらいの立

派なお坊さんが声を掛けた。私は、止めないで下さい」と言ったするとお棒さんはこう答えた。「私は別に

貴方を止め様とは思わない少し私の話を聞いて欲しいだけだ」「貴方は仏の弟子で有る僧で有りながら死の

うとしている人を止めないのですか?」私はなんだかはぐらかされてこう聞き返すと。「ではその仏は今ど

こに居るのですか?基督教も自殺を戒める、ではその基督は今どこに居るのですか?死んでしまたったでは

ないか」「でも、それでも………」「また貴方に聞きます。では貴方はなぜ仏や基督の名前をどうして知っ

ているのですか?2人とも2000年くらいも前に死んでしまった人なのに。また聞きます。栄華を極めた

藤原氏の大臣の名前を、絶大な権力を誇った中国の皇帝や歴代のエジプトのファラオの幾人を覚えています

か?皆、歴史に忘れさられた。

 そして基督は貧しい大工の子で2年しか仕事もせず絶大な権力も持たず本も残さなかった。仏陀は確かに

大名の子供で基督より貧しくは無かったかも
しれない。40年近く説法をしたがやはり絶大な権力も持たず

本も残していない。貴方がこの2人の名を知っているのは2人が人間の心に生きたからではないでしょうか

。藤原氏を初めとする権力者が忘れられたのは人の心に生きなかったからだ。権力者は自分を記念する多く

の物を作っても忘れられた。でも仏陀と基督の教えは或る人にとっては心の糧に今もなっている。 こんな

事を言った人がいる。『死は好むべきにも非
らず、また憎むべきにも非らず、道尽き心安んずる、更ち是れ

死所。世に身生きて心、死する者あり、身滅びて魂在する者あり。心死すれば生きるも益なし、魂在すれば

滅ぶも損な
きなり………死して不朽の見込みあらば何時でも死ぬべし。生きて大業の見込みあれば何時でも

生きるべし。  

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