哀れなる魂  破の段 第5部 東京五輪の日に

どうだ。ぐだぐだに酔い潰れて自分の精神と肉体を自分自身で打ち折檻している。精神薄弱児でも無いこの

俺が、理性有る人間がだよ。それは精神薄弱児よりもはるかに浅ましい事では無いか。

 そして昼から酒を飲む暇が有るのなら勉強でもすれば良いのに勉強もしようともせず、おまけに家からは

殆ど出ない。五年近く家から出ない生活で友人も無い生活は寂しい。俺を孤独と言う病が蝕む。孤独を紛ら

わすためまた酒の悪循環だ。

ベトナム戦争で苦しむ子供の映像
傷ついたのは本当に子ども達だけだったのでしょうか?ベトナム帰還兵の苦しみの原因
ストレスで死ぬ脳細胞
 ※補足説明、脳には「海馬」と呼ばれる場所があるが、ここは「記憶の入口」、つまり新しいことを学習する際に働く場所だそうだ。海馬が損傷を受けると、初めて出会った人の顔や名前をすぐに忘れてしまったり、新しい仕事が覚えられないなど、重大な支障をきたすことになる。米国のベトナム帰還兵の中にはいまだにトラウマ(心的外傷)後ストレス症候群=PTSDと呼ばれる心の病に苦しむ人が多い。ドアがバタンと閉まるなど、ちょっとした物音を聞くだけで爆撃の記憶がよみがえり、叫びだしたり震えが止まらなくなるのだそうだ。このPTSDに苦しむ帰還兵の脳を調べてみると、海馬の容量が小さくなっているという。戦場での強度のストレスにさらされた脳は、コルチソルという副腎皮質ホルモンを過剰に出し、これが海馬の細胞を死滅させてしまうのだ。新しいことが覚えられず、過去に心を強く傷つけられた記憶はそのまま…これでは心はいつまでも癒されない。戦場ほどではないにしても、日常のストレスで脳細胞は確実に死滅すると、浜松医科大の高田明和教授は警告している。H10/6/12日週刊ポスト
 実は太平洋戦争の帰還日本兵も同様な問題を抱えた人が居なかったわけは有りません。
シリーズ米軍の危機:その3 イラク帰還兵とイラク症候群

 初め親切な人は俺に意見したし智恵子も、散々、小言を言った。しかし今は誰1人として小言さえ言わな

い。人は他人から意見されなくなると終わりと言うが、それは本当の事だよ。

 しかし、こんな生活が何時までも続く訳が無い。或る日、俺の息子は遂に俺を些細な口喧嘩の末にぶん殴

った。俺を倒し俺の体の上に馬乗りになって、バシッ、バシッ、と息子は俺を殴った。


 俺は殴られた後に考えた。親子の絆は、ただ血が通っているだけでは、どうし様も無いんじゃないかって

思ったよ。実の親子じゃ無くっても、例えば赤ちゃん取り替え事件の時など、後で自分の子供では無いと分

かっても「離したく無い」と言う人も居るものな。

 俺は確かに俺の息子には血の通った親だが人間の親としては失格だな。子供は作るだけは作れるが育てる

のは難しいからだ。俺みたいな親は子供から「お前なんか親じゃない弱い子供を放り出して育て様ともしな

かったじゃないかただ血が通っているから親と思えたって無理だ。

放り出された子供の身にも成ってみろ」ともし言われても何も言え無いよな。事実、息子は俺に「お前無ん

か人殺しだ、人の労働を食い物に
する人殺しと同じだ」と俺を罵る様になっていた。

 信仰の選択は慎重過ぎるほど慎重に下は麻原彰晃(本名、松本ちづ男)真ん中、オームに殺害された坂本一家弁護士、右地下鉄サリン事件。物語では頻りに宗教の勧誘が有った。と述べているがこれは物語を面白おかしくするための脚色の虚構で私自身は殆どありませんただこのオームは街頭で勧誘された事は何度も有ります。あの時オームになっていたら富士の麓の土になっていたかも。ここだって世界平和をうたっていたのかもしれまもせんよ坂本弁護士の御墓は鎌倉の円覚寺に有る事は知っています。境内に案内が有ります。ただ気の毒で訪れる気は起きません私の宗派は曹洞宗ですが全く熱心では有りません良い事もなけりゃ悪い事こともない信仰はそれで良いかも。

 この頃、俺の家には、しきりに体のがっちりとした、或る新興宗教の人が来た。俺の家には貧、病

、争、の三拍子が揃っていたので新興宗教の人達は放っては置かなかった。

 俺は思っていた。宗教は苦しい事だと。何故なら、セト神、オシルス神、ゼウス神、アポロ神、これらの

神々はいずれも古代エジプトやギリシャの人々が信じていた神々だ。しかし国が滅びると、これらの神々も

信仰の対象には成らなくなっちまった。そう考えると不変の信仰の対象って有るのかしら?てな事を考えち

まってね。 それにこう言う人がいる。「信心すると病気が直るよ」では言いたい、何故、世の中に医者が

居るんだよ?勿論、病気が直るよと外の人に信仰を勧める人は、信仰をしても病気が直らない人にもっと外

の魂の救済を与える力も持っているのだろうが。だって、それでもし本当に病気が直らなかったらとんだ赤

恥をかくものな。人に信仰を勧める1つの手段として病気の事などと言う下等な手段を持ち出すのだろう。

でも俺は病気の人の魂の救済する力は無い自分の頭の蠅も追えないのだから。 それに俺は臆病だ。臆病で

は信仰など出来ない。昔、カトリック教会が免罪符と言う馬鹿な札を使った時、断固それに反対した人達は

確か、ルターやカルビンと言う人達だったろうか。

 上の例でも分かる様に、時にはいくら大な宗教団体でも正しく無い事を行う時が有る。その時に俺はルタ

ーやカルビンの様に孤独になっても、その団体の不正に対して「お前達のが悪い!」と言う勇気は情け無い

話だけれど無いんだ。 更に信者同志が集まると「私は信仰に拠って、こう苦しみを乗り越えた私はこれこ

れしかじか」と同じ様な人々が同病相哀れむ様にして孤独を癒す。

 でも、その宗教団体に過ちが有った時、それと断固戦わなければならないから、せっかく孤独が癒された

のに、また孤独にならなければならなくなる。でも本当に真面目に信仰をする人は実は誰でもそのくらいの

精神力が無ければ信仰など出来ないしね。不変の信仰の問題そして色々な辛さ。それを考えると宗教は苦し

い厳しいとしか俺には思えないのだ。俺にはとても無理だ。

 まだまだ有る。江戸時代に富永仲基と言う人は仏典は、ほとんどが釈迦の教えでは無くて後世の人が釈迦

の名を借りて作った贋教典であり、例えば法華経
などもそうだと言うのだ。その法華経を中心に哲学を完成

させた天台大師やその哲学の影響を受ける日蓮宗などは馬鹿の見本と彼は言うのだ。 仏典は釈迦
の弟子が

釈迦の言葉の記憶を本にした。それも確か阿含教と呼ばれる原始仏典のみで大乗仏典は全て後世の偽作だが

。俺は大乗仏典は素晴らしい教えだと思う。

 けれど、それをただ釈迦の正説と鵜呑みにし近代社会に意義の在る物に出来なければなんにも成らない。

それを近代社会に意義在る物にするためには信仰をする人は余程の勉強をしなければなるまい。
酔生夢死の

俺にそんな事が出来る訳が無い。

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