哀れなる魂  破の段 第3部 シベリア人

 その頃の或る日、俺は夢を見た。親父、智恵子、■■の叔父、叔母、そして何と死んだ母と俺とで一緒に

食事をしている夢だ。その次の日だった。日本へ帰れるとの連絡があったのは。

 そして鉄道に乗りウラジオまで着いた。ウラジオストックから日本へ帰る時、大きな壁の絵が目に入った

。それは天皇がいかに優雅な生活をしているかを示している物だった。そしてウラジオでは隊列を組んでイ

ンターナショナルの歌を歌わされた。俺はなんだか面倒臭くなって歌わないでいると、「なんで歌わないん

ですか?」とロシアの将校が語り掛けて来た。まあ、何と日本語のうまい事よと思った。

 しかしロシアの将校は、はっきり言って馬鹿だと思った。それは隊列を組んだ俺達日本兵の人数を数える

のに日本人なら、どんな計算の弱い奴でも、まあ、きちんと列を組ませれば3回ぐらいで計算を終える所を

なん度も、なん度も指を折って数えてやがった。

 そしてロシアの将校はみずほらしかった。そこにくるとウラジオで日本兵を受取りに来たアメ公は何とパ

リとしていて、かっこが良かった事かと思った。

そして確か康安丸と言う船に乗ると日本人看護婦がいた。

俺の眼にはその看護婦が輝く天使の様に美しく見えた。昭和22
年10月18日に舞鶴に着いた。長谷川は

もう少しだっのだ。それを思うと俺は長谷川が可哀想でならなかった。

 帰りの列車は引き上げて来た兵隊はフリーパスだった。

 

そして俺は広島に居る薫の父を尋ねた。しかし、

かの新型爆弾は俺の思ったよりも大変な破壊力を持っていた。この爆弾はTNT火薬2万トンの爆発力に等

しく爆風は大気圧の数10倍、爆心地の温度は5000万度から1億数1000万度、この破壊力により衝

撃は、熱輻射は家屋を破壊し人を焼いた。さらにこの爆弾は放射線を出す
ガンマ線、中性子線による殺傷力

が有る。

生き残った人々にも重大な後遺症を残す、それも子孫にまで影響が残るのだ。この爆弾による被害は死者7

万、負傷者13万、全焼家屋6万2000戸、半焼家屋1万戸、死傷を含まない罹災者10万。この爆弾が

昭和20年8月6日、広島に投下されたのだ。

 さらに8月9日には長崎にも投下された。後年、俺は金を出して人に頼んで薫の父と母の消息を調べたが

家族は全員、死んでいたのだった。

昭和20年8月15日に戦争は終わったが、俺に取って22年10月18日にやっと戦争が終わった様な気

がした。 この戦争は余りに多くの被害を残した。日本の人員の被害は死亡行方不明は陸軍143万9千

101名、海軍41万9千710名、官民65万8千595名、不具になった人は陸、海軍合計で9万4千

515名。ただしこの不具者の中には官民は含まれていない。

官民は何名、死んだかは分からないぐらい死んだのだ。これら戦死者、不具者の合計は261万人だ。これ

も官民の不具者は含まれていないから官民の不具の被害を加えたら、もっと多いのだ。

 この大東亜戦争は同時に第2次世界大戦と言って世界の連合国側は49カ国、枢軸国8国が世界を戦場と

して戦った。この戦いの動員兵力1億1戦万人、戦死者2千7百万人、民間人犠牲者2千5百万人だった。


 俺は良くロスケ、ロスケと馬鹿にするがソ連の戦死者は1千3百6十万人が戦士した。民間人を含めると

2千万人が死んだのだ。それを思うとソ連も可哀想な国だ。だからと言って日本にソ連が参戦した時、頭を

坊主にした少女達までことごとくソ連兵が強姦した事は決して決して許される事ではない。

 第2次世界大戦は第1次世界大戦の時よりも3倍も戦死者が多くなった。しかしなによりも増えたのは民

間人犠牲者で第1次世界大戦より50倍にもなった。

 この事は弱い民間人の大量殺人が無いと近代戦争は勝利する事が出来ないと言う事実だ。こんな高い代償

を払って、この大戦は終わったのだった。

 俺はこの戦争の人員の被害ばかりを言ったが破壊されたのは人ばかりでは無い街並みが戦前と戦後では一

変してしまったのを見ても、その破壊の強力さが分かるだろう。もう俺はそれを数字で言う気は無い、何故なら、そ

んな事は余りにも計算が大変だからだ。……………

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