哀れなる魂  破の段 第3部 シベリア人

まずい魚の酢漬。

 討伐に行くとどこからともなく部落から酒の香りがして来て、その酒を飲ませて貰ったり、日本では再現

出来ない様な餃子やまんとうと言う美味しい食べ物の豊富な支那とは、えらい違いだった。

 そんな何もかも貧しいソビエトで奇跡が起こった。或る時、俺は芸術的雰囲気に飢えていた。そりゃソビ

エトにも俺の好きな映画を見たよ確か映画はソビエトではキノーと言ったけ。しかしその映画ときたら映画

の中で銀製のコップを持つ場面があった。それがアルミ箔を張り着けた様な、いかにもちゃちなコップであ

る事が直ぐ分かった。映画に出て来る俳優がサディース何て言っていた。何がサデースだ。

 映画全体にとにかくちゃちな雰囲気が有り有りだった。その日は2本立てでこのちゃちな映画とスターリ

ン万歳見たいな映画を見せられた。そんな物、糞食らえと思った。

 そんな訳で俺は芸術的雰囲気に飢えていた。コルホーズで労働をしている時、急にバイオリンを弾きたく

なった俺は自分がバイオリンを持っているつもりで弾く真似をした。そして独り言を言った。「バイオリン

か」と。するとボリショイナチャニックが俺の肩を叩いた。彼は俺の前でバイオリンを弾く真似をした。手

の動きでこのボリショイナチャニックは恐らくバイオリンが弾けるで有ろう事が分かった。そして彼は、そ

の動作を終えると黙ってジープに乗って去って行った。

 その次の日、あのボリショイナチャニックがバイオリンのケースを持って現れた。彼の手を良く見ると彼

の左手は恐らく戦争のためだろう
指が完全では無かった。彼はバイオリンと一緒に楽譜も持って来た。この

事件は有っては成らない奇跡だった。それ程に、この国は貧しい国
だったからだ。俺は彼の持って来た楽譜

を見た。

 それは昔、俺が弾いていた、コレルリ、ベラティーニ、プニャーニ、と言ったイタリアの作曲家やエック

レス等
のバロックの小品や近代ではクライスラーの小品、バッハやメンデルスゾーンの協奏曲等が有った。

俺は身振りで彼に、この楽器を弾いて良いのか?と聞いてみると
彼は頷いた。俺は彼の楽器を借りられた。

 労働の少しの間に練習をすると数日で、直ぐ昔の勘が戻った。やがて日本人やソビエト人が回りに集まっ

て来る。俺は弦の調子を合わせ松脂を弓に塗って演奏を始める。このシベリアの大地に抜ける様にバイオリ

ンは響く。バイオリンを持って来たボリショイナチャニックは「お
前は芸術家だ」と言った。

昔、俺は親父に日本の唱歌を弾いてやった。親父は古典音楽は余り好きでなかったらしいが俺に山田耕作の

、この道や赤トンボ、からたちの花、などを嫌と言う程弾かされた。その歌曲をバイオリンで弾くと日本を

懐かしいがって涙を流す兵隊もいた。 何回かこの流刑の地で演奏をした。そして楽器をボリショイナチャ

ニックに帰したのだった。これがたった1つのシベリアでの楽しい体験であり唯一の芸術的体験だった。

厚生労働省:〜ソ連邦及びモンゴル抑留死亡者名簿〜抑留死亡者名簿の閲覧ができます
厚生労働省:ソ連邦抑留死亡者名簿:プリモルスク地方(ハセガワタケゾウ様たぶんこの方だと思います)

 しかし楽しい体験の後には悲しい体験が続く。それは俺を悲しませた。あの北支からずっと一緒にここま

で遂に離れる事が無かった長谷川上等兵が病気に成った。俺は長谷川を見舞い、胸に耳を当てて聞くと湿性

ラ音が聞こえる。

バイオリンを弾いていた頃は丁度、昭和22年8月頃。それから1ケ月程経った22年9月頃、長谷川は病

気になった。長谷川の病気は多分、肺炎だろう。この地で肺炎になれば、もう助からない病気は酷くなる一

方だった。

 しかし、もっと俺を悲しませたのは長谷川の死に際だった。俺はもう虫の息の長谷川を或る日、見舞った

。俺は長谷川に言った。「長谷川、俺だよしっかりしろよ俺だよ分かるか?俺だよ長谷川」しかし長谷川は

右の手に握った黒パンを隠す様にした。そして、さらに黒パンをしっかり握り締め離そうとはしなかった。

 生きたい!生きるんだ!長谷川の心の中には、もはやこの一念しか無い事は分かっていた。そのためには

、この黒パンを食べ、そして絶対にこれを人に取
られまいとする執念が親友の俺の言葉さえも、その右手を

緩める力には成らなかったのだ。まして意識は朦朧としている中で生きたい!と言う一念だけは生
きて日本

の土をもう一度踏みたいと言う一念だけは幾ら意識が朦朧としていても消えずに黒パンを握り締める力に成

ったのだ。そして長谷川は死んだ。

「長谷川!」俺が大きな声を張り上げても長谷川は、その口を開こうとはしなかった。 ところで俺はひま

わり、この明るい花が嫌いだった。なぜならば俺達の仲間、シベリアで死んだ日本兵を、ひまわりの下に埋

めた。その日本兵の亡骸を飾る様に夏になるとひまわりが咲いていた。どうしても俺は今でもその事を思い

出すからだ。 長谷川も埋めた。坊主出身の兵隊にお経をあげて貰ったのがせめてもの慰めだった。長谷川

が死んだのは昭和22年9月の終わり頃だった。

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