さらに20年3月の初年兵の持ち物を見た俺はさらに敗戦を確信する。水筒が時代劇に出て来る様な竹の水
筒と剣を入れる鞘が俺達の時は鉄なのに3月の初年兵のは木製だった。それだけ鉄が不足している証拠だっ
し、さらにコートは南京袋の様な生地で出来ており繊維も不足している様だった。
俺は直ぐ瀬古の事が心配になった。奴は海軍だ。しかし戦闘機に乗れるのは500人中50名ぐらいだ。
まさか奴が選ばれまい、と不安を打ち消した。
俺は運命に身を任せるつもりだった。俺達の師団は昭和20年7月6日、泰安の近くだったと思うが朝鮮
へ出発した。確か河北交通の白馬山と言う駅から北朝鮮の咸興へ向かい、7月18日に咸興に移動し終えた
。師団長も細川忠康から20年3月31日に藤田茂中将に変わっていた。
俺達は対米戦を行う部隊として米軍の朝鮮上陸に備えた。しかし実は日本に帰って本土決戦をする予定だ
ったのかも知れない。ところが、もはや日本近海の制海権もまま成らなかったらしい日本海に米国の潜水艦
が出て俺達師団を送る船も危ないと上官は言ったのであった。
食事も北支より悪かった。さらに兵隊には朝鮮の招集兵を使う事になった。朝鮮の招集兵は程度が低かっ
た。字が読めないで口移しで歩兵操典などを教えた。
だが朝鮮人でも志願兵は、やはり程度が高く、今でも思い出すが俺と仲の良かった南鮮の大きな果樹園の
息子の高野と言う男は日本の明治大学を出ていた。終戦の時に「朝鮮の独立は今だ。お前も俺と一緒に来な
いか俺と一緒に朝鮮のために戦ってくれ」と言った。俺はとうとう一緒に行かなかった。一緒に行っていた
ら俺の運命はどうなっていたろうか?今でも時々思い出す時が有る。
話を食事の事に戻そう。食事が悪いせいもあって演習の帰り腹が減った俺は民家に立ち寄り、そこの婆さ
んに腹が減ったのでお金を払うから何か食べさせてくれと言った。「はい」と言って奥に引っ込んだまま待
ってもなかなか出て来ない。暫くして婆さんが出て来ると沢山の御馳走を出して食べさしてくれた。「私の
息子も徴用で横須賀へ行っています」と話してくれた。
俺は、この婆さんが可哀想だった。俺達日本人はどこで死のうと自分の国の戦争だから構わない、いや、
それも非人間的な事なのに、さらに他国の人まで日本は戦争に駆り立てているのだった。
しかし、それも永くは続くまい。その時、俺は米国機動部隊と俺達が戦うのは時間の問題だと思っていた。
民主主義の国の軍隊と遂に戦って俺はその時、死ぬと思っていた。 朝鮮の人々は俺達部隊を篤く持て成し
た。
俺達はしばしそれに浮かれたが、そんな20年8月8日の大詔奉載日にソ連は対日戦争布告をした。俺の
予想は当たらず俺達は米国と朝鮮で戦火を交える事なく敗戦を知った。 昭和20年8月15日。天皇陛下
の玉音放送を朝鮮で聞いた。俺は天皇陛下の声は、もっと恐るべき通る声と、信じられない、何か神秘的威
厳を持った声だと思っていた。嵐の中からヨブに呼び掛けた全能の神ヤーベェの声、俺はその声を知る由も
無いが、何か現人神と呼ばれる陛下の声にそんな力を予想していたのである。全ての国民は陛下の声を初め
て聞くのである、そして玉音は流れた。
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