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哀れなる魂  破の段 第2部 或る無名戦士の記録

があった。

 捕虜は死んだ。奴が黒だったか無実だったか未だに分からない、分かっているのは俺は遂に殺人者になっ

てしまった、と言う事だった。俺は遂に言い訳の出来ない人殺しになってしまったと言う事だった。その事

が一生、俺の重荷になって行く事を俺はこの時考えもしなかった。

 そして中国の村の連中が俺の殺した捕虜の亡骸を引き取りに来た。同じ村の仲間をもし殺されたら俺はど

んな顔をするだろう。恐らく腸が煮えくり返って、どんなに我慢しても顔の表情に出るに違いない。しかし

彼等は野菜、干し肉など土産まで持って来たのだった。そして、ついぞ俺達に憎しみを表さなかった。

 俺は中国人をこの時恐ろしい民族だと思った。では、ここで話題を変えて恐ろしい民族の話をしたので

画像は上右アヘン戦争、黒人奴隷貿易(皆、征服者と簒奪者は白人肌は白くても腹は真黒だ最低だよ全く)
左よりセポイの反乱、征服者でもあり簒奪者でもあるコルテスとセシルローズ
上左はレーニンの帝国主義論、真ん中は偉大な合衆国大統領リンカーン奴隷制度の中でそれを止めようと言う人も現れました。誠に残念な事に凶弾に倒れて亡くなってしまいました。白人の中でも奴隷制度や帝国主義を分析する人も現れ我々に指針を示してくれました。子どもの時、かあちゃん(私は庶民の出身なのでこんな風に母を読んでいました)がくれたリンカーンの演説集ただし岩波文庫では無かったですけど
※補足、中国や朝鮮を保護国にした戦前の日本これは日本独自の考えでは無く上の西洋列強の伝統に習った物だと思います。

おぞましい民族の話をしよう。英国は紳士の国などと馬鹿が言っているが英国が清朝に売った物は何か阿片

ではないか。英国がいや欧州文明がなにをやったか。俺は知っているぞアフリカ大陸から奴隷の黒人を引っ

張りだし船で300万人を輸出し、その3分の2が船の中で死んだ。ピサロと言う馬鹿がインカ帝国を滅ぼ

し、合衆国はインディアンを追い立て多く後進国の国々を保護国の名の元に植民地にした帝国主義の国はど

この紳士の国なのですか?えー。

 セシルローズと言う偽善者は「俺は仕事の合間に聖書を読む」と言う話を聞いた。「ふざけるな!」俺は

こいつらをおぞましいと言った。その欧州のおぞましい良い所だけを早く猿真似したのだよ大日本帝国は。

 岡倉覚三が、こんな事を言っている。「諸君は信じる事が出来ますか?東洋は有る点で西洋に勝っている

事を」と東洋の良い点を見ようともせず、なにもかも西洋が優れていると考える西洋かぶれが俺は大嫌いだ

。しかし、その西洋帝国主義に国粋主義と言う下らない思想をくっ
けた大日本帝国はもっと嫌いだった。

 帝国主義論で帝国主義の矛盾を、魚迅の小説で旧態の道徳に縛られる中国の人達の生活を知っていながら

俺は大日本帝国の手先となった。

その事がたまらなく情け無かった。俺の心は益々暗くなっていった。日本兵の死、八路軍の死、捕虜の死、

さらに戦争で見た物は虐げられた中国の人々の有りのままの姿だった。

 或る時、討伐に出ると空が暗くなって行った。何だろうか?それは蝗の大群だった。百姓達は急いで火を

藁に付け焼いたり空き缶を叩いて
蝗を追い払おうとしたが無駄であった。蝗の大群はたちまち麦を食い尽く

して行った。若い時に読んだパールバックの大地にも確かこんな場面が在った。

農民達は蝗に農作物を食われてしまう。さらに日本軍には侵略されるでは踏んだり蹴ったりだ。八路軍を討

伐に行って中国人部落の誰も居なくなった家の中の壁に、東洋の鬼(リーベンクイーズ)、
と書いてあった。

 さらに農民が農作物の果物を担いで歩いていると日本兵は平気で、その籠から果物を取った。しかし農民

はなに一つ文句を言わなかった。これが聖戦の実態なのだ。

 ところで蒙陰塞にいた時の事、日本人10名ぐらいの所帯に中国人は出入りさせなかった。しかし、中に

少数の中国人は出入りしていた。その中の1人にタコーズと言う若者がいた。本名は別なのだが背が高く皆

が、そう呼んでいた。

 彼は行商人だった。そして俺と仲良くなった。このハンサムな青年に「次は悪いが支那靴を持って来てく

れ」と頼むと、彼はきちんと持って来た。礼に俺は彼に岩塩をやった。しかし、彼はふっ、と姿を見せなく

なった。 後で聞くと彼は八路軍のスパイだった。恐らく、相当優秀な人物だったのだろう。

戦争は友好の情さえ許さない物なのか、俺は悲しくなった。ここはそんな甘い世界では無いのだ、その厳し

さをもう少し話して見よう。 俺は
安仙荘の中隊本部へ行ったり歳口亭へ行ったり蒙陰塞へ行ったりしてい

たが安仙荘の中隊本部にいた時。実際の戦闘は丁度、消防署が火事が在れば真夜中で在ろうと
出動する様に

軍隊も同じだった。突然夜中に招集があった。

 点呼をする。そして士官は1人1人の兵隊の水筒を振って点検する。すると1人の兵隊の水筒が空だった

。その兵隊は皆の前でビンタを食った。当たり
前だ水は戦場では命なのだ。実戦は厳しい演習の時「伏せろ

!」と命令され水溜まりがあったので、避けて伏せたら背中を掴まれ水溜まりの中に入れられ
た。なぜなら

本当の実戦ならば命を守るためならば水溜まりでも伏せなければならないからだ。

 ビンタを食らった兵隊は水ぐらい注意して持って行くべきだった。なぜなら喉が渇いて前線で、美味しい

、と飲む水が生きている内の最後の水になるかも知れない。平時でさえ明日の命は分からない、ましてここ

は戦場だ。 それに俺達師団に、何時
、蒋介石を総指令官とする国民軍と江蘇省徐州で戦った徐州作戦の様

な激戦が命ぜられるかも知れないのだ。 この徐州作戦は大変な激戦で初年兵100名中、2〜3名の割り

でしか生き残れなかった。その為、それを記念して陸軍は生き残った兵士にはバッチをくれた。そのバッチ

は北支の軍隊ではなかなか幅を聞かせたと言う。 ところで徐州作戦を歌った歌。東海林太郎の歌った麦と

兵隊と言う歌に「行けど進めど麦また麦に」と言う文句

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