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哀れなる魂  破の段 第2部 或る無名戦士の記録

 どう言う訳か男色ちゃんの古参兵に可愛いがられる可愛いこちゃんの初年兵ているんだよなー。そう言う

可愛いこちゃん初年兵は絶対、私的制裁を受けないの、贔屓
の古参兵が庇うから。可愛いって得ね男でも女

でも。

 さて先程の思い出の私的制裁、酒がきっかけで俺が気合いを入れられた話に戻ろう。私的制裁で一番腹の

立つのはぶん殴られる事だ。もちろん軍隊に入ればぶん殴られるのも日常茶飯事だ。しかし、正直、
椙本と

言う野朗にぶん殴られた時は参った。

 椙本は山梨出身の人間だった。この話は安仙荘の中隊本部に居た時の事だった。体格のがっちりした17

5センチ程のこの男は先輩風を
吹かせる男で襟章は赤地に横に金筋1本の兵長さんの階級だ。俺はこの男が

好きでなかった。

 演習が終わって椙本は初年兵の俺達に「靴を脱がせろ」と言った。外の初年兵が脱がせている所を俺は無

視する様に行ってしまった。椙本は俺をキッと見た。奴も俺の腹を知っていた。

 そして、ついに酒がきっかけで奴に私的制裁を受ける時が来た。俺達初年兵の教官は大塚少尉と言う。襟

章は何と赤地に上下金モール縁に横に金筋1本星1つの少尉さんで俺より3つぐらい年上だったろうか演習

へ行くと直ぐ顎を出して驢馬
に乗る様な人物だった。

 驢馬は中国の農家では生活必需品だったが大塚少尉にも生活必需品だった。しかし、好人物で、或る時、

初年兵が私的制裁を受けるのを目撃した大塚少尉は雨降る中、古参兵を集めて「なんで貴様達は初年兵を苛

めるのか貴様達だって初年兵の時は在ったろう!」と怒っていた。

 軍隊では私的制裁は禁止されていたが、それは表面的な物だった。そんな中でも良い人は居たのだ。そし

て俺は大塚少尉の当番兵になった。

或る日。「おい階級何ぞ忘れて今夜は大いに飲もうや」と大塚少尉に言われたので酒は嫌いでは無いので飲

んで足に来てふらふらしていた。


 前置きは長くなったが、そんな時だかの椙本ちゃん馬鹿に出くわしたのは。「貴様!帝国軍人が酒を飲み

過ぎて足元をふらつかせるとは、なに事か!きおつけー歯を食いしばれ!」椙本の顔に確かに笑みが浮かん

だ。赤地に星1つの2等兵が、赤地に横に金筋1本の兵長を、先輩を軽んじる奴が軍隊でどう言う目に会う

か思い知らせる時が来たからだ。「バシッ、バシッ」体力が有るだけに椙本の拳骨はさすがにきいた。

 次の日、顔中が腫れ上がって飯を口に入れる事が出来なかった。初年兵仲間は口々に「おい、大丈夫かよ

?」と俺に聞いた。
椙本は初年兵に対しては、こんな奴だったが体力も有り軍隊の訓練は真面目だったので

上官には受けが良かった。俺は腹の虫が治まんなか
った。俺は軍隊に居た時、最後まで人を殴らなかった。

しかし、奴だけは殴りたいとこの時思った。 そして椙本に些細な抵抗をする時が来た。俺達、初年兵は討

伐の用が有って歳口亭
へ椙本と一緒に出掛けた。歳口亭から討伐の帰り安仙荘の中隊本部まであと2キロぐ

らいの時に椙本は初年兵全員に
「走れ」と命令した。

 その時に俺の初年兵の戦友、横浜出身の長谷川はあと1キロぐらいの所で顎を出した。俺は奴を庇って長

谷川の荷物を持った。水筒、銃、など。椙本や外の初年兵も持ったが俺が1番重たかった。俺は走り出した

。すると椙本は俺にぴったりと寄り添う様に並んで走り始めた。俺は長谷川の荷物を背負いながらも、むら

むらと椙本には負けまい、こん畜生と言う闘争心が起こった。 その気持ちは椙本も同じだった。俺達は自

然に競争する様になった。

2人は殆ど譲らず1線に並んだ。中隊本部が見えた。俺は重い荷物を持っているにも関わらず最後の力を振

り絞って椙本を体2つ分くらい引き離して勝った。

 椙本は確かに強靭な男だったが闘争になれば俺は勝つ自信は有った。しかし、上官の命令には絶対服従の

軍隊で椙本と争う事は出来なかった。そんな俺の見せた細かな抵抗に俺は勝った。しかし、それから椙本は

俺に対し前の様に敵意を示さなくなった事がはっきり分かった。いやむしろ親しみさえ俺に感じている様で

あった。

 軍隊とは、そんな所だ。確かに大塚少尉みたいな良い人も居る。しかし俺達は脱走兵を探しに行った事も

有る。遂に見付からなかったが、大の男が抜
け出たい、そう思う所が軍隊なんだ。脱走兵は捕まれば重い罪

になる、それを覚悟してまでも。 罪と言えば無実の罪を着せられる事だって有る。

の安仙荘の中隊本部に俺は通信隊の教育を受けるため出掛けていた時。教官の乾パンが足りなくなった。乾

パン1つと言うが軍隊では上官の命令が無かったら戦闘の時に乾パンは食べてはいけないのだ、それは乾パ

ンは大切な非常食だからだ。 「貴様等少し考えろ!」と講堂の冷たい床に全員正座させられた。

軍隊は連帯責任だから。教育を受けた初年兵、全員が座らされた。少し時間が経つと池田と言う自由ケ丘出

身の奴がオイオイ泣き出した。

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