哀れなる魂 破の段 第2部 或る無名戦士の記録 |
ニヨリ聖戦ニ赴キマス。南公ノ御舎弟、正季公、曰ク『7世マデ只同ジ人間ニ生マレテ朝敵ヲ滅サバヤトコ もっとも今川了俊の書いたによれば難太平記の記述は10の内、8、9は作り事、嘘だと書かれているが 俺はニュース映画で満州国の康徳帝を見た事を思い出した。細い顔立ちに丸い眼鏡を掛けた、この皇帝の ドーデの最後の授業と言う小説では戦争によって国が占領され民族の言葉、母国語が奪われてしまう悲し |
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YouTube - 満州国皇帝・溥儀即位式 | YouTube - 昭和天皇、溥儀お出迎え。東京駅から迎賓館へ | ||
(宣統帝)愛新覺羅 溥儀 |
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俺は清朝最後の皇帝。宣統帝の前で皆が日本語で君が代を歌わされるのを見た時、中国の人々はきっと心 自由の無い日本よりは戦地の方が良いかも知れない。立川飛行機に行く時、降りる立川の駅の回りには憲 「万歳、万歳」の声の中、電車は動き出した智恵子は、また泣いていた。突然、智恵子は「行ちゃ嫌!」 電車は動き出した。すると智恵子は走り出した電車を追って来た。長い髪を三っ編みにしセーラー服にも 俺はまず東部62部隊に入営した。3日目に親父が面会に来た。俺が着ていた国民服を渡した。軍隊で 東部62部隊は川崎市溝ノ口の山の中にあった。そこに2、3日いた次に溝ノ口の駅から省線で鶴見の 1車両に1人の割りで下士官が付いていた。途中の食事に今でも生の鰯が出たのを憶えている。幾ら俺が |
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この話を話してくれた人■■は下、右の写真の奥田良三先生という人に声楽を習ったと言っていた。どうせ一回レッスンを受けた位で物にならなかった。と私は想像していますがこの当時は軍歌と言う戦争気分を高揚する流行歌が政府の音頭で推奨されたらしいのです。私も聞いたことが有ります。今の若い人は全く知らないのでは、右の写真は東海林太郎先生(しょうじたろう)とうかいりんたろうて私読んじゃいました。戦争当時は有名な人だと両親が教えてくれました。 | |||
YouTube - 海ゆかば 奥田良三(附:海軍五省) YouTube - 東海林太郎 麦と兵隊 1970 | |||
博多までは1日では付かないので列車の中で眠る。途中列車の中では演芸会であった。次々に初年兵達は そして釜山へ軍用列車で京城、新義州と朝鮮を行くのだ。朝鮮か俺は何気なく心の中で朝鮮の童謡を口ず 明らかに日本人のが悪かったのに、そこにいた群衆は「朝鮮人のせいだ!」と口々に言い、そこに警察が来 |
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