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哀れなる魂  破の段 第2部 或る無名戦士の記録

ニヨリ聖戦ニ赴キマス。南公ノ御舎弟、正季公、曰ク『7世マデ只同ジ人間ニ生マレテ朝敵ヲ滅サバヤトコ

ソ存ジ候ウ』トノ心ヲ以テ聖戦ニ望ム覚悟デアリマス」 俺は右翼など糞食らえ!と思っている人間だが、

こんな時に昔、読んだ太平記の言葉が出て来るとは馬鹿に悔しかった。

 もっとも今川了俊の書いたによれば難太平記の記述は10の内、8、9は作り事、嘘だと書かれているが

今の戦争は「聖戦」とほざい
て大東亜共栄圏を守るとは名ばかりの侵略戦争だ、これは太平記の記述よりひ

どい大嘘だ。

 俺はニュース映画で満州国の康徳帝を見た事を思い出した。細い顔立ちに丸い眼鏡を掛けた、この皇帝の

前で中国の人々は何と君が代を歌っていたのだ。

 ドーデの最後の授業と言う小説では戦争によって国が占領され民族の言葉、母国語が奪われてしまう悲し

さを描いている。戦争の為、この村は明日からフランス語を教えない今日は最後のフランス語の授業だと先

生は言う最後に先生は黒板に「フランス万歳」と書く。
 

YouTube - 満州国皇帝・溥儀即位式 YouTube - 昭和天皇、溥儀お出迎え。東京駅から迎賓館へ

(宣統帝)愛新覺羅 溥儀

俺は清朝最後の皇帝。宣統帝の前で皆が日本語で君が代を歌わされるのを見た時、中国の人々はきっと心

の中では「中国、万歳」と叫びた
いのだろうと思って同情した満州国は大日本の傀儡国家である事は、この

ニュース映画で明らかだった。そんな思いを秘めながら中野駅から
省線に乗った。

 自由の無い日本よりは戦地の方が良いかも知れない。立川飛行機に行く時、降りる立川の駅の回りには憲

兵がうろうろしていてぶらぶらしている若い奴が居よう物なら引っ張って行かれ焼きを入れられる。いや戦

地も地獄だ前門の虎、後門の狼だ。

 「万歳、万歳」の声の中、電車は動き出した智恵子は、また泣いていた。突然、智恵子は「行ちゃ嫌!」

ともっと激しく泣き出した。「そんな事を言ちゃ駄目!非国民と言われます」叔母は叱った。

 電車は動き出した。すると智恵子は走り出した電車を追って来た。長い髪を三っ編みにしセーラー服にも

んぺ姿の智恵子が走って来る。幾ら彼女が懸命に走っても電車に追い付ける筈はなかった。その姿はどんど

ん小さくなったが逆に俺の胸の中で智恵子への愛着はどんどん近ずき逆に大きく一杯になっていた。熱い感

情が込み上げて来て思わず席を立って電車の後部へ後部へと走って距離を少しでも近ずけたいと思った。俺

は大声で怒鳴った。「九段の桜の下で遭おう」小さくなっていく、その顔が頷くのが分かった。智恵子は何

時までも手を振っていた。俺は智恵子が視
界から消えるまで見詰めていた。

 俺はまず東部62部隊に入営した。3日目に親父が面会に来た。俺が着ていた国民服を渡した。軍隊で

は着物と食料は全て支給だから。

 東部62部隊は川崎市溝ノ口の山の中にあった。そこに2、3日いた次に溝ノ口の駅から省線で鶴見の

操車場から軍用列車で博多まで行くのである。軍用列車はウインドを降ろし決して外から中を見る事は出来

ない。田舎の田園地帯はウインドを開けて置いたが、大都市を通る時は「閉めろ!」と命令された。

 1車両に1人の割りで下士官が付いていた。途中の食事に今でも生の鰯が出たのを憶えている。幾ら俺が

好き嫌いの無い男でも生のまま食べられないので捨ててしまった。

 この話を話してくれた人■■は下、右の写真の奥田良三先生という人に声楽を習ったと言っていた。どうせ一回レッスンを受けた位で物にならなかった。と私は想像していますがこの当時は軍歌と言う戦争気分を高揚する流行歌が政府の音頭で推奨されたらしいのです。私も聞いたことが有ります。今の若い人は全く知らないのでは、右の写真は東海林太郎先生(しょうじたろう)とうかいりんたろうて私読んじゃいました。戦争当時は有名な人だと両親が教えてくれました。
YouTube - 海ゆかば 奥田良三(附:海軍五省) YouTube - 東海林太郎 麦と兵隊 1970

 博多までは1日では付かないので列車の中で眠る。途中列車の中では演芸会であった。次々に初年兵達は

歌を歌わされた。声楽を習っているからと言ってシューマンの歌曲を歌う訳にはいかないから歌謡曲、確か

伊那の貫太郎を歌った。その歌の中に「菊は栄える葵は枯れる」と俺が歌うと、すると若い下士官は頷いて

「成る程その通りだ」と言って関心していた。 やがて列車は瀬戸内海に来た。ウインドを少し開けて外を

見るとキラキラした瀬戸内海が見えた。そして博多へ博多からは連絡船に乗った。玄海灘に船が出ると直ぐ

分かった。船は上下に揺れ出す恐らく波の荒さが違うのだろう。俺は船酔いして弁当を食べられずに乗客の

朝鮮人に上げた。

 そして釜山へ軍用列車で京城、新義州と朝鮮を行くのだ。朝鮮か俺は何気なく心の中で朝鮮の童謡を口ず

さむ「鳥よ鳥よ
緑豆の畑に、下り立つな緑豆の花がホロホロ散れば青舗売り婆さん泣いて行く」そして昔の

事を思い出した。 内地にいた時、朝鮮人と日本人が喧嘩になった。

明らかに日本人のが悪かったのに、そこにいた群衆は「朝鮮人のせいだ!」と口々に言い、そこに警察が来

て結局、朝鮮人が悪くなり警察官に怒られた。 酷い話だ俺はアメリカ人が嫌いだ、何て言うのは構わない

と思う。人間の感情だから、でも物の是非はきちんとしなきゃ朝鮮人だって善人、悪人は居るし日本人だっ

て善人、悪人は居るからね、この頃の朝鮮の人は可愛想だったよ全く。そんな圧政下の朝鮮の待遇は良く折

り詰め弁当が美味しかった。さらに旅は続く朝鮮から満州国の瀋陽、錦州、山海関、そして中国天津へ、途

中やけに大きな川を渡っているのに

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