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哀れなる魂  破の段 第2部 或る無名戦士の記録

 私は老人がこの18年10月21日の壮行会の話を終わると老人の目頭が潤んでいるのを見た。そして悲

しげに暫く黙った。

 私はあの大富豪婦人の事も知りたかったが戦争の事も知りたくなり「一体、どの方面に行ったのですか?

」と聞くと、老人は「聞いてくれるか、いずれ必ずお前が一番知りたい事は最後に話す、何故なら実は戦争

が今度の事件と関係が在るからだ。戦争を抜きにして今度の事件は語れ無い暫く我慢して聞いてくれ」と言

ったと思うとまた昔の事を話始めた。

 18年10月21日の学徒出陣壮行会が終わると地方出身の学生達は次々と帰郷していった。東京駅、上

野駅、新宿駅、は毎日が大変な騒ぎだったと言う。俺は毎日、立川飛行機に行っていた。瀬古は友人の下宿

へ行って別れを惜しんでいたらしい。12月1日、俺は軍事工場を1日休んで瀬古の見送りをした。

 「九段の桜の下で逢おう」と瀬古は言った。「もしお前が俺より先に、生きて日本へ帰って来たら九段の

桜の下で待っていてくれ」と俺が言うと。瀬古は「ああ」と答えた。

 「瀬古さん元気でね」「智恵子ちゃんも元気でな銃後の事は頼むぞ」また智恵子は泣いていた。そして「

帰って来たら2人でお花見に行くの?」と泣きべそをかきながら俺達2人に聞いた。「ああ」俺達は笑いな

がら答えた。

 瀬古は「そうだよ智恵子ちゃん、また3人で、いや薫ちゃんも探して4人でお花見に行こうと言う合言葉

何だ」「九段の桜の下で逢おう、なんて綺麗な合言葉ね」泣き虫の智恵子は、またべそをかきながら言った


 そして瀬古は家族や友人、知人に挨拶して省線に乗り電車は駅を滑って行く。万歳、万歳の声の中、家族

の人も友人も知人も手を振っていた。瀬古は、その秀麗な顔をきりり、と引き締めた様に、振り返り突然、

見送る人々に走る省線の窓から敬礼をした。

 俺も咄嗟に敬礼を帰した。瀬古の姿が小さくなりながらも敬礼をしながら頷くと俺も敬礼をしながら深く

頷き無言の内に九段の桜の下で逢おう、と言うさっき智恵子が聞いた約束を繰り返しているのが俺には分か

った。「九段の桜の下で逢おう」この合言葉は男なら誰でも知っている別の意味の悲しい合い言葉だったの

だ。

 左は千人針と言うお守りだそうです。右は出征を祝う人達。この頃の人達は度胸が良いと思います。私なん臆病だから若し兵士で有ればこの時点で失神しているかもしれません。情けない話です。

 そして、いよいよ俺が入営する日が来た。俺の家の前には昭和16年、国民学校令によって今までの小学

校から国民学校と名の変わった生徒である小国民も俺の出征を見送りに来てくれていた。

 俺は子供が大好きな男だったが、この国民学校とか小国民と言う様な人を小馬鹿にした様な全体主義的名

前は大嫌いであった。

 そして白い割烹着に左の肩から国防婦人会と字の入った、たすきを掛けた婦人会も見送りに来てくれた。

17年2月2日、20歳以上の婦人は強制的に入れられた、この組織は大日本婦人会とは名ばかりで中央

役員は軍人や男子役員
で占められ自主性など全く無い組織だった。

 集まった人々は皆、兵士である俺を送る歌を歌う。「我が大君に召されたる生命ち栄えある朝ぼらけ……

…」俺は糞馬鹿らしい詩だ、と思いながら聞いていた。続いて軍歌、日露戦争の在郷軍人が音頭を取って「

勝って来るぞと勇ましく誓って国を出たかりゃにや………」それが終わると小国民の代表が挨拶をする。「

銃後の事は任せて下さい………」紙を見ながら純粋に読み続ける子供が俺は可愛想だった。

 例によって幟が立っている。1・5メートル程の竹の棒に日の丸、その下に、祝い、その下に出征、その

下に縦書きで俺の名前、同じ様な
幟がもう1本あった。

 千人針も貰った。こんな臍が茶を沸かす下らない物は欲しくは無かった。しかし当時は銀座、浅草、新宿

、渋谷、といった人通りの多い街には千人針の布を持って立っている人が必ずいた。布には千の印が丸く着

いて丸が虎の絵になっている物も現実に見た。その印に1人1回縫っ
て糸を結ぶ1枚の布には千人の女性の

思いが縫い着けられていて布を腹に巻けば敵弾も避けて通ると言われていた。さらに『
死線』を越えると言

うのでこの布に『5銭
』の貨幣を付ける事もあった。

 確かにその思いは認める。事実、俺はこの布をシラミが湧くと言うので腹には巻かなかったが戦後も捨て

ないで取って置いた。俺が言いたいのは物理的に弾丸が避けて通る訳が無い、そんな下らない精神主義、神

風主義が嫌だったのだ。

 そして見送りの人々と一緒に近所の神社へ無運を祈る。国民服を着た俺は姿勢を正し皆に挨拶をする。「

本日ハ、カクモ盛大ナル御見送リ、有リ難ウゴザイマス。帝国ハ英米ヨリ大東亜ヲ守ル為メ戦ッテオリマス

。陛下ノ勅命

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