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哀れなる魂  破の段 第1部 1943年10月21日の青春

俺の父母が逃げ惑う日を1日でも遅らせたいんだ米英の空母から17年4月18日の様にB25が帝都東京

府を爆撃に来るに違いない、俺はそれを1日でも遅らせたいのだ」と言った。

 「黙れ」と俺は瀬古を平手打ちにした。「分からない奴だ死ぬのは俺だけで沢山だ、お前は生きなければ

ならぬ日本が負け帝都も少しは傷むし社会も経済も1時は混乱する、しかし制海権、制空権を敵に握られて

戦争を続ける程、大本営も馬鹿ではあるまいB25ごときで帝都の全てが焼けるとは思えん」俺は瀬古の体

を掴んで話しを続けた。

YouTube - B-29 P-51本土空襲 YouTube - tokyo daikuushuu 東京大空襲 「東京大空襲」史上最大の虐殺
※上はアメリカのB−29爆撃機で諸説では「B25ごときで帝都の全てが焼けるとは思えん」と言っているが思惑とは別に帝都と日本は焦土と化してしまいます。



「これからは、お前の様な優秀な人間、平和を愛する優秀な人間が、この国には必要だそして占領された日

本が1人立ちする時が必ずやって来る。その時にお前の様な優秀な奴が居なかったなら日本はどうなるんだ

?」俺は興奮する様に怒鳴った。

 すると瀬古は「お前の言う事は有り難いしかし俺は行く俺は戦争が嫌いだ俺は日本の年寄りや子供や女が

傷付くのを一刻でも遅らせたい。

そう信じなければ、こんな侵略戦争の片棒を担ぐ事に絶えられないと思っている。お前は捨て石に成るつも

りだろ?」「ああ」「見損なうな!」と瀬古は俺の顔に平手打ちを食らわした。「自分の友達を戦争に行か

せて自分が仮病を使って銃後でのうのうと暮らすか俺はそんな汚い心を持っていない!近代戦争は惨めな戦

いだ1人の英雄的戦士は決して出ない俺もお前も敵兵の誰が打ったか分からない弾に当たって死ぬだろう、

でも俺はそうであっても最後まで人に汚い人殺しをさせておいて自分だけ生き様とは思はぬ俺もお前も惨め

で惨たらしく死ぬのだ、しかし心だけは汚い心を捨てた勇者、戦士でありたい。どうせ戦うなら弱い物、虐

げられた物、子供、女の為、美しく花々の咲く国を守り、惨めだが誇り高き戦士として死にたいのだ。お前

一人を惨めに死なせはしない」「瀬古……………」俺はもう何も言わなかった。「今夜は飲もう瀬古、向坂

、西田、対馬、島岡、皆、行ってしまうのか…………」 瀬古は「10月21日に神宮外苑で出陣学徒の壮

行会をやる来てくれるな」と言った。「木曜日か工場を1日休んで行くよ、その前に智恵子の家でも壮行会

をやろうぜ」「ああ」と瀬古は言った。

 俺達3人は10月の或る日、智恵子の家で最後のお別れ会をした。瀬古はピアノを弾き俺もピアノを弾き

智恵子もピアノを弾き、智恵子と俺はそれぞれバイオリンを弾きながら楽しく過ごした。

 瀬古は「お前の家にピアノが無いのに何時そんなに旨くなった」と俺に聞いた。「実はな智恵子の家と瀬

古の家で練習したんだよ宿借りさんで練習したのよ」と瀬古は「宿借りか、この世も仮の宿かも知れない俺

達はこの仮の宿の宿借りをもう直ぐ止めるかもしれんな」と言った。すると智恵子は「3人でまた会いまし

ょう」と突然言った。

 瀬古は12月入隊予定、俺は1月入隊予定21日に壮行会は迫っていた。「智恵子ちゃんも来てね」瀬

古は言った。「もちろん行くわ」と、その声も寂しげだった。「3人でまた会いましょうよ、3人でまた会

いましょうよ」俺は智恵子の取るに足らない言葉を今でも思い出す何の変哲も無い家で開いた集い、でもこ

の時代何の変哲も無い集いが最後の思い出の集いとなる事は余りにも多かったのだ。 そして10月21日

がやって来た。

昭和18年10月21日木曜日その日は朝から雨だった。俺は工場を1日休んで東京府渋谷區神宮外苑競技

場へ地下鉄の青山1丁目の駅で智恵子と待ち合わせた。 そして壮行会は始まった。東京帝国大学が先頭に

行進が始まった。俺と智恵子は下の方の席にいた。雨で足元は
んでいるが整然とした足音と共にやって来る

行進を紅白の布に覆われ広さ畳、2畳、高さは木の階段で九段、4隅から紅白の木の柱に支えられた屋根の

在る閲兵台の前を通り過ぎ様とする行進を俺は目の当たりに見ようとしていた。

 「瀬古はどこだ?」「あっ、いたぞ智恵子、瀬古だ」俺は大声を出し指差した。横に6人程、並んだ行進

の観客席側に瀬古はいた。「えっ、どこ?」しかし智恵子も直ぐそれを見付けた。すると見る見る智恵子の

眼から涙が溢れて来た。「泣かないでくれ智恵子」詰まる様に俺が言うと。「瀬古さん可哀想」と言った。

俺と智恵子は雨で体が濡れて冷たくなる事も悲しみが沸き上がる熱ぽさで忘れていた。

 東京帝大、東京の各大学、予科、高専の学生達は次々に見事な分列行進を行って言った。泣いているのは

俺達ばかりでは無かった。スタンド一杯の女学生達も泣きながら見送っている。俺は確かにこの行進には出

なかった。しかし俺、瀬古、薫、智恵子、多くの同級生、これら俺達の年代の青春の悲しく咲いた姿の様に

思えた。抑圧され、挙げ句の果てに咲いた

 軍楽隊の行進曲と共に校旗を立て38式歩兵銃の床尾板を左手で腰の辺りで支え引き金を上に向けて肩に

銃を担ぎながら学生服学帽ゲートルを足に巻いていた学生達が次々に行進していく。校旗を持つ旗手と、そ

の横の学生は閲兵台に来ると投げ刀した。スタンドの人々の中には皆、手を振り歓声を上げる人もいたが俺

はそんな気になれなかった。

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