1985年8月14日午後6時45分、100平方メートル程の自分の家である寺院の庭の片隅に今、
乗って来たばかりのバイクをアイドリングしたまま置いた。
突き抜けるばかりの勢いで家屋の中へと急いだ。引戸を開けタップダンスの様な仕草で足にぴったり着い
た運動靴を脱ぎ、馬が後足で蹴り上げる様に靴を蹴った。
私は急いでいた。玄関の広間を乱暴に上がり、暗い寺院の廊下を滑りそうな感じで急いだ。奥へ奥へ、や
っと普段、住んでいる台所へ行くと母は私の顔を見るなり。
「おなか減ったろ、ほら!」と私の口へコロッケを、いきなり放り込んだ。ぱくっ、と、私はコロッケを
口に銜えたまま、つけっぱなしになっているテレビが時報を告げるのを感じ腕時計の秒針を7時0分0秒で
止めた。
テレビの時報は午後7時0分0秒に近ずく、ピッピッピー、A音四440サイクルの時報を打つと同時に
龍頭を押し時刻を合わせた。
コロッケを口に銜えたまま、時を合わせながら「こんな姿は惚れた女にゃ、とても見せられたもんじゃな
いな」と私は心の中で呟いた。
私の1刻1刻の時間に追われる焦る気持ちの反映か、それとも8月14日という夏の熱さも手伝ってか、庭
から家の中という僅かな距離を急いだだけで息が弾み汗ばむのを感じながら口の中へ、つっ込まれたコロッ
ケをムシャムシャと野人の様に食べだした。
「全く、なにをそんなに急いでいるんだい?」トントンと、リズミカルに包丁を動かしながら母の妙は尋
ねた。もう還暦を迎え様とする、後ろ姿は寂しそうだった。白い割烹着と合わせた様に頭から白い物が目立
つ様になった後ろ姿に済まない気持ちが込み上げて来た。もう18になる、この駄目息子の将来が心配なの
だろう。
「そうそう、亡くなった人の棺にドライアイスを必ず入れておくれ、そうでないと、この気候で腐ったら
大変だから」「どうせ夏休みだから俺も暇だから、そのぐらいは、やるよ葬式は明日15日だろ、しかし、
あの大富豪の老婦人の葬式には、さぞさぞ大勢の客が集まるだろうな、この寺は■■■でも結構、広い方だ
が、車が入りきれるかな?」と私は答えた。
8月13日の夜に亡くなった寺の檀家の大富豪の老婦人の話をしたのである。こうして私が急いでいるのも
元はと言えば、この大富豪の老婦人の死がきっかけに、なっていたからだった。
もしかして母に心配を掛けるかもしれない。いや、どうせ出来損ないの私の暴走、怒りを止めて欲しくも
ない。それに、これは少しは世の中の為に成ることだと、私は信じ心の中に自分がこれから行う事への意欲
を高めた。
私はこの寺の住職、仁太郎の1人息子であったが子供の時から父とはとかく親子で折り合いが悪かった。
というのは几帳面で体が弱く青白い顔、律義な性格であった父に比べ私は根が野人的気質の強い男であった
。体格も1メートル85センチ、77キロ、背筋力250キロ握力は左右75キロである。自分は明らかに
パワーが歴然と人並み以上であったが、それをスポーツで鍛えるなど大嫌いで、その日、その日を面白、面
白しく暮らせれば良いと思っていた。
スピードの快感に取り付かれ、アルバイトで買ったバイクを乗り回す、私と父との折り合いは悪くなって
当然だった。勉強も好きでなく、やっとの思いで世田谷の曹洞大学の夜間仏教科に入った。 しかし私の生
活は荒れだした。昼、勉強もせず自動2輪の大型免許を取るため。450ccのバイクで練習のため、走
りまくる毎日、そして府中の試験場を尋ねては750cc検定試験を見ていた。
白バイ上がりの試験官の「帰れ!」と言う声に、受験者はバイクをすごすごと引き帰す。1本橋、スワロ
ーム、悪路、坂道発進などこれらを完璧に走行するのは難しかった。また試験コースをバイクで試験前に
試運転するのは許されておらず、歩行で下調べするのみが許されていたので数回試験に落ちる事は止む無い
事であった。
「ま、5回は落ちなきゃな」と私は思った。しかし勉強もやらなきゃならない、はっきり言って頭が悪い
私は、人に着いて行くだけで2倍の努力が必要だった。おまけに酒、煙草、アルバイトや親からくすねた金
で、耳に赤鉛筆、手に競馬新聞、ポケットにラジオの3種の神器を持って京王線で府中通いであった。さら
に雀荘の煙草の煙に沈んだ空気、パイの音、下品な笑い、熱くなって目を血走らせた男達の顔も慣れてしま
った。
そんな時分だ、あの婦人が亡くなったのは、そして、その事が今、私をひどく急がしていた。さすがに放
埓な私の人生も学生生活半年余りで翳り始めていた。父との反目、学業の不振による学校の進退問題、いつ
しか土地のチンピラとも雀荘などで顔馴染みになっていた。
|