1943年10月21日の青春⑱

哀れなる魂　　破の段　第１部　１９４３年１０月２１日の青春

	「風邪でも引いたのよ富山の薬、在ったかね、今探すよ」「本当に何でも無いから心配しないで」　俺は悟った。自分では何とも無いと思っていた事が肉体に影響している事を。１０年間無事故の模範運転士が前夜、予定変更で突然帰宅すると妻の不定を目撃し次の日、赤信号を見過ごして先行電車に追突したと言う話を聞いた事が在る。確かに信号の赤色は彼の網膜には写った。が払っても沸き上がる憎しみのために眼には写っても心には信号の赤色をこの運転士は写す事が出来なかった。　俺の心も同じだった。薫への憎しみ、その相手の男への嫉妬、青山や進省堂への恨み、今日、俺の心を支配したのは、それらとの戦いだった。その疲れと煙草、酒、女の性への強烈な印象と肉体の意識しない疲れが俺の心の注意の範囲と集中の力を著るしく低下させたのだ。今、俺が電車の運ちゃんでも赤信号を見れど見えない開き盲となって事故を起こしたろう、それを他人は気が付いたのだ。　そして親父が出て来た。「本屋から連絡が在ったよ、もう何も言うな実は俺も今日１日出ぱなしで今帰った所だ。そしてお前の事を聞いた、まあ一緒に飯でも食おう」と言った。

	俺は２階に上がって裸電球をつけ、ラジオをつけると。「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部発表、１２月８日午前６時、帝国陸海軍は今８日未明、西太平洋に於て米英国と戦闘状態に入れり。大本営陸海軍部発表、１２月８日午前１時帝国海軍は本８日未明ハワイ方面の米国艦隊、並びに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり帝国海軍は………」ラジオは日米が、ついに決戦したのを告げた。昭和１６年１２月８日だった。　日本は民主主義の国、合衆国とも戦争を始めたのだった。俺の心はこの日から浮かなくなった。坂道を落ちる様に「付き」が無くなった。俺の運命に戦争の圧力がそうしたのだ、と感じ始めていた。
	補足※左よりドイツの哲学者フォイエル・バッハ　同じくドイツの哲学者カール・マルクス　作家　小林多喜二

	補足、戦前の日本はマルクス主義を弾圧しました。左のフォイエル・バッハは著書の基督教の本質で唯物論を説き(確かヘーゲル左派と言う流れだと思う)さらにマルクスは弁証法的唯物論を発展させたと言われているそうです。そして共産主義へ発展へ私も父もマルクス読みましたが全然解りません私は共産主義者ではないのでそう思うのかもしれませんが解らねえ本が説く思想なんかにそんなに神経質になる必要が有ったのかどうか(資本論古本屋に売っちまいました。)私には解りません。資本論を理解できる人は余程の超インテリと私は思っています。ただしフォイエル・バッハは著書の基督教の本質は聖書を耽読していたせいか素晴らしい本と思いました。(これもどっかに行っちゃいました。)
	ジャック・アタリ - Wikipedia(現在マルクスは別の評価がされているそうです。)
	１２月８日の次の日、資本論や裏切られた革命、などの本を庭に穴を掘って本を空き缶に入れて埋めた。進省堂が特別高等警察に連絡して、こんな本が発見されたら………この時の日本は社会主義や民主主義が正論と言をう物なら大変で在った。１中の同級生の中だって俺を「非国民」と呼ぶ奴がいた。　俺は別に赤にかぶれている訳では無かったが、今の日本は明らかにおかしいと信じていた。女工哀史は資本論に出て来るイギリスの労働者とそっくりだ。それに憤を感じるのが、どうして悪いのだろうか？早く埋めなければ特別高等警察に見付かったら共産党絶滅を目指す恐ろしい組織、残虐な拷問で、あの小林多喜二は殺されたのだ。釈放されても私生活まで介入して尾行と監視を徹底的に行う組織に俺は恐れをなした。俺は悔しいが、そうするしか無かった。　しかし俺は本を焼かなかった。いつか、これらの本が、きっと自由に読める日が必ずやって来る。せめて、それだけは信じたかった。でも悔し涙が土の上にぽたり、と落ちたのだった。　昭和１６年１２月８日、それからの俺は親父の仕事を手伝いながらも今までの禁欲生活の箍が外れ逆に性的耽溺の日々、放恣な生活を送る様に成った。　ある日、智恵子が俺の家に尋ねて来た。進省堂を止めた、と聞いたからだ。俺は智恵子の顔を真面もに見られない後ろめたさを感じた。俺は智恵子を誤魔化して帰らせた。智恵子の家にも遊びに行か無くなった。あれ程、好きだった演劇、映画も見る事も無くなった。１６年８月、米国が対日石油輸出を全面禁止し、同１０月乗用ガソリンの使用を禁止し遂に戦争が始まってツーリストの経営は苦しく成ったにも関わらず演劇、映画の変わりに苦しくなった親父の金をくすねて特飲街に入り浸る様になった。深川區州崎辯天町１丁目、２丁目。ここは市電で永代橋を渡り門前仲町を通り過ぎて４つ目の駅で運河の在るこの町にも町２丁目に病院が在る。女は全部、和服だった。　俺はこの街の女の方が新宿の女より好きだった。新宿の女は情が薄い気がしたからだ。そして向島區玉の井にも行った。省線で亀戸へ行き東武線で９個目の駅だった。「この路地抜けられます」と言う立て札が在り路地の中へ行くと突き当たりの路地の板塀の目の高さに４角い折り紙ぐらいの穴が在る。中を覗くと、女が手招きでおいで、おいでをしている。俺はその女と遊んだ。しかし玉の井というのは後始末が不潔で在った。事後に洗面器でぬるま湯を持って来る。長井荷風の墨東綺譚を読んだが自分がその小説に書かれている玉の井にこようとは夢にも思わなかった。しかし玉の井には殆ど行かなかった　今度は浅草區新吉原１～２丁目新吉原場屋町、新吉原角町、新吉原江戸町。かの吉原の話だ。ここは江戸時代の大遊郭地帯で俺が行った時は角海老と言う店が有名だった。俺は吉原では１回しか遊ばなかった。見返り柳と言うのが吉原大門と言う所に在り、やはり吉原病院と言うのが鷲神社の辺に在った。

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