1943年10月21日の青春⑬

哀れなる魂　　破の段　第１部　１９４３年１０月２１日の青春

	ところが親切このうえない、この男の腹に在ったのは薄汚ない自分可愛さの犬根性だけだったのを初めてこの時、知った。　そして後で知ってのだが、この男は劣等感の塊だった。俺は帝大に入れる実力の在る男を蹴落したと言う喜びの北叟笑みを見た。俺は悔しかったが黙って店を止めるしかなかった。　後で店の別の人が、そっと俺に打ち明けた。「青山は、お前に休め、と親切に言わなかったか？」「ええ、言いました」「あいつは、そうして人を休ませて、主人には、あいつは休んでばかりいる、と主人に告げ口をしていたんだ俺もその事を知っていたが、こう考えて何も言わなかった。あんたは、こんな所より、もっと良い所が在る頭の程度が違う事は直ぐ分かった、こんな所では、勿体ない」と慰めてくれた。　この親切に助言をしてくれた人は俺の嫌いな人だった。一緒に働いている時、ちっとも親切でなく、無愛想な人だった。しかし人間と言う物は表面の親切ごかしでは決して分からない。魔物は時に仏の姿と成って現れ人に近ずく、悪魔が女性に近ずく時は眉目秀麗なる貴公子と成って女性を誘惑すると基督教は言う。これは譬えだ甘い言葉にゃ気を付けろと言う。時に本当に親切な思いやりの在る人は、その人の一番傷付く事、嫌われる事が分かっていても思いやりのため、ずけずけと悪口を言う物だ。表面だけ親切そうな人物は十分注意する事だ。そして魅力を持った人、金地位を持ってる人は悪い奴はそれを狙う。　若い女の子は言う。「私、何も持ってないわ」と。とんでもない、ただ肉欲の捌け口のためにだけ、その機能を持っていると言うだけであらゆる美辞麗句を並べてあらゆる女に言い寄る男がどれ程、多い事か、彼等は体に溜まった精子の命令によって、考えて見れば良い背中に美辞麗句を言う男の背中にでっかい精子が「さあ俺を女の体に放出させてくれ」と命令している様子を。そう、その命令のため女に言い寄る男が一体どれ程多い事かを。　しかし、俺もあの女の前だけでは美辞麗句を並べられる詩人にでもなりたかった。幼馴染みの清原薫の前では。薫は尋常小学校からの幼馴染みだった。家が近所で仲良しだった。しかし薫の家は貧しかった。
	※薫の父は俺の親父と同じく商売をしていた。薫の父は頭の良い人物であった。大蔵商業と言う学校を首席で卒業した人物だった。(虚構の文章ですが大倉商業は実在しました)場所は古地図下方の中央の現在も有る大倉集古館の付近らしい現在は東京経済大学となってこの場所には勿論有りません。

	薫の父は俺の親父と同じく商売をしていた。薫の父は頭の良い人物であった。大蔵商業と言う学校を首席で卒業した人物だった。しかし、怠け者で変人だった。　俺も子供の時、少し勉強を見て貰った事が在るが二度と見て欲しくないと思った。しかし俺の親父の様に商才が無かったせいか細々と商いをしていた。　薫は尋常小学校を出ると直ぐ奉公に出された。藪入りになった時、偶然に会うか、薫の母が薫を連れて俺の家の母の所へ遊びに来る以外はめったに会わなくなった。　あれほど子供の時は一緒に遊んだ男女がなぜ突然、黙ってしまう不思議な季節が訪れるのだろうか？確かに憎からず思う異性を前にすると顔面が上気して赤くなっていく感情を感じるのだろうか？　薫の母は正月とあって俺の家に薫を連れて年賀に来ていた。正月の２日は商売熱心な親父は店を開いていた。外から丁度、帰った俺と薫親子は出くわした。店先をよそよそしく小さく一言「今日わ」と通り過ぎ様としている所へ薫の母の言葉が背をがっしりと捕まえた。　「お兄ちゃん立派になったわね今、府立のどこの中学だったけ？」俺は内心、びっくりとした。俺はその言葉が実は怖かった。薫の母が怖かったのではなく、その後に来る胸の時めき薫と俺をいつか一言も喋らせなくなってしまった若い男と女の目覚めの時めき、薫の顔を見れば顔を赤らめなければならぬ自分自身の、女への目覚めの感情を人に悟られるのが、無性に恥ずかしかったのである。　「叔母さん、俺、府立一中だよ」「薫、お兄ちゃん、ずいぶん立派になったね」薫は「今日は」と案外平気な様に挨拶した。「薫ちゃん元気？」と聞くと「うん」と答えた。「俺、勉強が在るから、叔母さん薫ちゃん、またね」俺は二階に急いで、ある事をした。女はどうかしらないが男だったら、あるいは覚えが在るかもしれない。　直ぐ鏡を見て自分の顔を見た。俺の顔は確かにほてっていた。そして薄っすらと紅をさす様に頬が薔薇色になっている事に気付いた。「薫は、叔母さんは、お母さんは、俺の気持ちを知ってしまっただろうか？」気恥ずかしさが、また体を火照らせた。　そして、たった今、一階で受けた感動を俺は思い出していた。清潔な黒髪と後れ毛、白い薫の残像、ただそれだけの一コマの姿に俺の思いは沈んでいた。俺は今まで決して、まじまじと鏡など見なかったのに、まじまじと自分の容貌や果ては体臭さえ気になり薫に自分が、どう思われているのか気になって仕方無かった。　薫は俺の初恋だった。瀬古が俺の大切な友人、智恵子が妹の様な女、そして薫は初恋の大事な女だった。しかし薫一家は、或る日、夜逃げをして急に目の前から消えてしまった。

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